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いつだったか、西部開拓時代を描いた、西部劇を何気なく見ていた時に、「へ〜ぇっ!」と思った事があった。野良作業や牛追いで汚れた恰好をしていた父とその息子達が、母親の食事の合図と共に、食堂に集まってきた時のその服装だった。あたりは荒野の一軒家で決して都会の家ではない。
その荒くれ男達がジャケットをきちんと着、西部スタイルの棒タイをつけて、席に着いた。さらにかっこいいことに、食事の前の敬虔な祈りの言葉を捧げて食事となった。この映画は残念なことに、この場面しか印象にない。誰も見ていないところでは、裸で食事したところでかまわないように思うが、この人達は神が見ていると思って暮らしているのだろう。 まことに格好良く思ったものだ。
ところが、今の日本はどうだろうか。自分自身は着替える事はしないけれど、「いただきます」の食事前の感謝の言葉は無意識に出るし、そうするのが当たり前だと思っていた。 しかしである。今の子供は食事前の「いただきます」を言わないようにしつけ??られているらしいのだ、学校で! どういう事かというと、学校の給食時に「いただきます」という、感謝の念をどこかに向かって言わせることは、子供の思想信条に干渉し、宗教の自由に反するからタブーなんだそうだ。 開いた口が塞がらないとはこのことだ。
学校給食法は、昭和29年に出来て、その主な目的は、戦後の子供達の育成のために栄養バランスのよい食事を与えることと、食事作法を学ばせる事から始まった。 戦前には、古今東西の偉人の伝記などを教えた「修身」という教科があった。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって禁止され、昭和三十三年、「道徳」が設けられた。が、日教組(日本教職員組合)などの政争の具にされて、形骸化した。で昔当たり前だったことが、教えられなくなった。 結果が上の一文、子供の思想信条に干渉し…なのだ。
出されたものを感謝も無しに、黙って食う人の群というものはもう、人ではない。果てしなく獣に近い何者かだろう。 そういう基本無しで育った人の、どこに思想信条という御大層なものが宿るのだろうか…。もちろんダンディズムとは無縁の輩である。
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