本日のグチ。
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2000年09月04日(月) ついてない・・・。(旧掲示板)

昨日、夜の7時頃に親宛の親戚の電話。
母親でも父親でもどっちでもいいっていうから、なんだか変だなーとは思ってたのだけれど。
まさか祖母が死去するとは・・・。
調子が悪いとの電話だったのだけど、今日の朝息を引き取ったとのこと。
よく死は生の一部だとし、死ねる事は生物に許された幸福なのだとまるで言わんばかりのテレビドラマや映画があるけれど、結局それは感情を持ってしまった人間の逃げでしかないような気がする・・・。
最も不幸なのは忘れられた女だと誰かはいっていたけれど、御託並べたところで世代が変われば必然的に忘れざるをえないんだから、死んだ人間みんな不幸ですっていってるのと同じじゃん。
たかだか年しか一緒にいない私の母親は、もう自分の死ぬ事を考えて、遺言めいたことをちらほら話したり、酒屋の店長は病気が見つかるのを恐れて会社の定期検診をなんとか逃げまくったり。
現実はかえられない。
それでも。
それでも時間はすすむわけで。
マヤの人々は時間には終わりがあると信じていた。でも世界の崩壊のあと、彼等が何を見ていたのかはわからない。
いや、答えはきっとない。
闇と虚無と死。
無限に広がる安息の世界。
頭でっかちの現代人は言葉で良いように表現するけれど、さけられない恐怖を迎える準備を熱心にしているだけだろうか。

食費にすら困っていた両親に、さりげなくおもちゃでも買っておやりとお金を握らせてくれたという祖母。
幼稚園から帰ると必ず御褒美のアイスをお帰りといいながら私に握らせた祖母。
自分がまだらにぼけはじめたとき、母に自分が着てた着物を形見にもらっておくれと突然やって来た祖母。
姉にけがさせてふるえの止まらなかった私に黙って頭に手を乗せてそのあとずっと側で裁縫をしていた祖母。
一緒にかたずけ物をしていた母に天国にいったら幸せを祈っているよと言い残して文句も言わず養老院にはいった祖母。

すぐに忘れられてしまうとしても。
恐怖に襲われても。
時という抽象物にされてしまった存在亡き者は、これからもそのありえない重みを感情動物にひっさげてついてくるような気がしてなりません・・・。


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