■TRASH■

2004年02月26日(木) きじゅん

毎日が楽しくて、あっという間に一日が終わります。
曜日の感覚なんて既に抜け落ちていて、寝て起きて仕事して、帰ってごはん食べて遊んで気づくと寝る時間で、また寝て。

残業もなく毎日家でごはんた食べられて、冷たいお風呂に入る必要もなく、週末を待ち望む必要すらなくて、気づくと土日ということがほとんどです。
なんて幸せな日々。

でも一日という単位はなんなんでしょう。
時々不思議になります。
日が昇らなかったら、夜がこなかったら、1日という単位はあったんでしょうかね。

その仮定はすでに舞台を地球以外で考えなくちゃならなくて、地球以外だとすると24時間が1日換算とするのは、無意味なんじゃないのかなぁとか、まぁいろいろ思うわけですが、ただ単に気になってつぶやいているだけなので、なんの下調べもしてませんので、無責任なひとりごとになってます。

客観的に観て、同じ周期で繰り返させる出来事があれば、基点が基準になって、区切りをつけたくなるのはなんとなくわかるんですけど、ただ浪費されていく場合、区切りをつけるのって難しくないのかなぁと。

人間の体内時計だって平均25時間、個人によって24時間にプラスマイナス5時間も差があるらしいですし(あー、体内で消費されるカリウムだかの量で時間が正確に計れると書いたのは梶尾真治氏のエマノンシリーズだったかな)、確かに毎日眠くなる以上は、どこかでリセットされるべき個所があるんでしょうが、現在こうして無理やりに朝起きているという、考慮からはずせない事実があるわけです。(さわやかな目覚めの人は想定外)

何が言いたいかといえば、やはり自分の持てる「基準」なんてやはり曖昧で、明確な指標というのは重要だな、と思う訳なんですよ。
法律とか、時計とか、太陽とか。

なんというかですね、物差しとか作った人を尊敬するわけです。
そしてその物差しを認めて使おうと広めた人を、それまでの基準を捨ててそれを使ってみた人達をすごいと思うわけです。

何が言いたいのかわからなくなってしまいましたが、多分今「基準」ということに対して物を考えることがマイブームらしい、というだけなんですけどね。

そうそう、少し前に考えてた「エレベータを使わずに階段を使おうと思う自分なりの基準はどこか」という点に関してですが、あれは単純に「時間」だった模様です。

エレベータのが早く着くならエレベータって感じみたいです。(あたりまえ?)

5階に行くなら、「3階にエレベータがあった場合、どっちが早くつくか」と考えると、まぁ早いエレベータならエレベータのが若干早いですけど、エネルギー問題とか、自分のカロリー消費とかが加味されて階段に軍配を上げるわけですね。

いろいろ毎日適当に生きてしまってるなかで、テーマを持って考えていると、それはそれなりに面白いのです。
それも自分なりの「毎日を楽しむ基準」なのかもですね。
ふむふむ。


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