| 2001年04月26日(木) |
本の話2&みんなでだんじょん |
で、本の話の続き。
昨日は良質な本の話をしたわけですが、本というのは「薬」であると考えてます。 どんな良く効く薬でも、病気があってなければ全然効き目がないのと同じで、どんなにいい本でも、読み手によって毒とも成り得る。
万人に効能があるとしても、それは、万人に対する共通項目を探すわけであり、それはごくごく基本のことでしかありえないのです。 今溢れている、癒し本と呼ばれるものはこれに当てはまるわけで、「そうだね、で、それで?」になってしまう。
その人が何を考え、何を悩んでいるかによって、読むべき本、おもしろいと感じるが変わるわけです。 だから、本にはエンターテイメント性しか求めていない人以外は、基本的に、書店のランキングなんかを参照してはいけません。
ああでも、”本を読む”という行為自身に、何の重さを持ってない人もいるんだよなぁ。 そういう人達は、ある意味幸せな人だから、別にそれでもいいんだけど。 実際、ただの暇潰しに本を読んでいる人のほうが多いんだろうね。
でも、本というのは、苦悩があるからこそ成り立つと考えています。 悩んで、苦しんで、どうしたらいいかわからなくて、でも、どうしようもなくて、そういった”どうしたらいいんだろう”という思いを、つづったものが、そもそもの本なわけだと思うんですよ。
どうしようもないことに関しての、”自答”であり、”同じような悩みを持つ人を探す”ものであるわけです。
昔は、多くのタブーがあって、反抗するよりも先に、”どうしようもない”ことと割り切らなくちゃいけないものが沢山あったから、自分の自由な発想や思いを語る場所なんかなかったわけです。 例えば、家長制や国に対する考え方。 結婚なんかもそうでしょう。 少し外れた考え方を口にすれば、それは反逆というレッテルを貼られ、言葉通りの村八分なわけです。
大きな社会に対する反骨精神や、自分に対する劣等感。どうしてみんなとおんなじ様に考えられないのか、どうして悩まなくちゃいけない世の中にあるのか。 かといって、世の中を変えられる、自分を変えられるだけの力はないわけです。 そもそも、どうしたらいいのかの正解なんてないんですから。
その、正解がないことに対して、どのように苦しんでいったか、どうやって自分の中で折り合いをつけていったか、あるいはつけられなかったか、そういった葛藤をつづったのが、本来の”文学”であると思うわけです。
最近の世の中は、”正解”を求める方向性が強いように思います。 でも万人にとっての正解ってなんなんでしょう。 そんなものを求めることに、なんの意味があるのかわかりません。
ただ、そんな苦しみと、どうやって付き合っていくか、そういう指針は必要だと思います。 自分だけが辛いって考えるからこそ、人にひどいことが出来ちゃうんですから。 こんなに自分が苦しんでるんだからって考えて、やる気をなくしたり、ひどいこと言ったり。
極端な言い方だけど、本を読まなくなる人が増えて、そういう人が増えたと思います。 もうちょっと、本を読む人が増えるといいんだけど。 最近ネットが普及して、中途半端に思いのはけ口が出来て、誰でも発言出来て、それでその考えの理解者が増えちゃうから、余計今後本を読む人は減るでしょうね。 さらに、本を書く人も減るでしょう。 溢れるのは、エッセイやドキュメンタリー、個人啓蒙なんかのものばっかりになりそうだな。 そして、考える余地のない、自己完結の物語。
はぁ、ちょっと鬱。
で、ウルティマ話。 今日はyoshiyukiさんとはむーん(Hammmmn)とダンジョンに。 さすがに3人がかりだと敵を倒すのも楽♪ がんがん倒して、26時に離脱。
いじょ(^-^)/
|