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世界一周 - 2005年02月07日(月)

たまたま、世界一周をした人のホームぺージを見た。
私と同じ歳のその人は26の時に世界一周をしたのだそう。

実はこの世界一周、という定義はよく分からない。

世界一周なら、地球上の全部の国を回る、ということだろう。
けれど、中には地球の横一周、縦一周、のような人もいる。
まあそれはそれで本人は「世界一周」といってるのだからいいのか。

いや、こんなことを書きたいわけではなかった。

そのたまたま見たホームページはとてもステキで
写真をクリックするとその人がとった写真と、言葉(日記みたいなもの?)が出てくるというとてもしゃれた(死語?)作りになっている。手が込んだホームページだ。

彼が書いた言葉は別に真新しいものではなく、
インドとか、ネパールとか、いわゆる貧富の差が激しい国(俗に言う秘境といわれるような国)に旅をした人たちがよく使うような言葉なのだけれど、

なんだか写真と合わせてみているうちに
とても羨ましくなった。

写真の技術的なことではなくて
写真に取られる側(被写体)への近づき方、とでもいうのだろうか?
それが、なんだか伝わってくる。

夜に部屋で「キッチン・ストーリー」という映画を見た。

「独身男性のキッチンにおける生活動線を調べる」という名目である独身老人男性を観察するようになった男性と、その観察される側とのふれあいを描いた映画だ。

人に会う、ということは実はとてもすごいことなんじゃないか

というのは、ここ2、3年の私にとっての真理(信条?)である。
海外に行けば特にそう感じる。

もしかしたら、一生、この人と会うことはなかったかもしれない

という思いが、旅先では私について回る。
でも、これは毎日の生活でもそうなのだ。

今、この瞬間に隣にいる人にはもしかしたら一生会うことはなかった人かもしれない。

「この瞬間」までのいろんな選択肢の中で選んできたからこそ、今、この人が隣にいる「瞬間」に自分がいるのだ。
例えば、「この瞬間」の1秒前でも、トイレでもお茶を入れに行くのでも良い、席を立てば「この瞬間」に私の隣には別の人がいたかもしれないし、誰もいないかもしれない。

そういう思いが時間を追うごとに強くなっている。

それに追い立てられるように焦ることもある。
逆に言えば、「この瞬間」に別の道を選ぶことだってできるのだ。
そして、別の道を選んで、別の誰かに会うこともできる。

自分は「ここ」で何をしているんだろう?
会う人は他にいるんではないか?

そんな思いが強くなる。

なぜ「キッチン・ストーリー」からそんなことを思い出したかというと「独身男性のキッチンにおける生活動線を調べる」ということがなければ、この映画の主人公はこの男性に会うことはなかった、ということをこの映画を見ながら考えていたからだ。

「人に会う」にはきっかけがある。
そのきっかけは往々にして些細なもので、それが「きっかけ」であることすら気が付かないかもしれない。

そんな「きっかけ」を求めてしまうのは、もしかしたら私は焦っているのかもしれない。





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