時のしらべ 静寂の月

穏やかに優しく時を過ごしていきたい。
心に淀む澱(おり)を解き放ち、自己を見つめ直し、闇に沈むことなく生きられますように。

2006年06月10日(土) 秋田男児殺害事件について思うこと

 私には母親の気持ちはわからない。母になったことがないからだ。子どもを失った母親が、どれほど深い悲しみと癒えない傷を負うことになるのか、想像することしかできない。
 しかし、

「(前略)なんで、うちの彩香がいないの』と切なく苦しくて張り裂けそうになった。彩香と豪憲君が重なった(後略)」(YOMIURI ONLINEより引用)

 という畠山鈴香容疑者の言い分は、動機として矛盾しているような気がする。
 彩香ちゃんと豪憲君が重なったのなら、畠山鈴香容疑者が“衝動的に”絞め殺したのは、誰か? 豪憲君ではなく、彩香ちゃんだということにならないか? 死んだ我が子と重なったのなら、その子を殺したくなるはずはないと思う。それでは、我が子を殺したくなったも同然ではないか。
 本当の動機を、まだ話していないとしか思えない。保身のためか、自分で認めたくないからか、それはわからないけれど。

 ただ、周囲の、
「畠山鈴香容疑者は、あまり彩香ちゃんをかわいがっているようには見えなかった。悲しみのあまり間違いを犯してしまうほど彩香ちゃんの死を悲しんでいたかどうか疑問だ」
 という言葉は、ちょっと違うと思う。
 畠山鈴香容疑者にとって、彩香ちゃんは間違いなく失えば耐え難い悲しみを感じるほどの愛情の対象だっただろうと思う。

 ただし、我が子への愛情だったかというと、それは疑問だけれど。

 畠山鈴香容疑者は、彩香ちゃんを自分の所有物として愛していたのではないだろうか、と思う。言わば子どもがお気に入りのぬいぐるみに注ぐような愛情だ。
 彩香ちゃんをきれいに着飾らせて、写真館で七五三の写真を撮り、人に見せて自慢していたという。これも、子どもが大切なおもちゃを友達に自慢する心理に似ていないだろうか。
 彼女にとって、彩香ちゃんはお気に入りのお人形、都合の良いように自分の傍にあって当たり前だったもの。失えば悲しいし、どうにかして取り戻そとする。そして、取り戻すことができないとわかった時、友達が同じような物を持っていたとしたら、子どもはどうするか?

 奪おうとするかもしれない。
 それでも奪えないなら、壊してしまえ、と思うかもしれない。
 自分は無くしたのに、友達が持ってるなんて、ズルイ!

――そういう理屈だったんじゃないだろうか。

 推測でしかないけれど。



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