書評:「オルター・ポリティックス」ガッサン・ハージ - 2022年11月19日(土) この夏から秋にかけてずいぶん時間をかけてこの本を読んだ。 途中「在日コリアンはいかに学ばれてきたのか」というスタディーツアーを主催し、さらに沖縄の世界ウチナーンチュ大会に参加してボリビアから沖縄に里帰りする人々と行動を共にしながら、必要に迫られた性急な読み書きの合間、飢えるようにこの本を手に取った。 植民地主義とかレイシズムとか、様々なものにアンチ(抵抗)として対するのではなく、全く別の「オルター」な視座が語られる。特に私の印象に残ったのは下記の2点だ。 1点目は抵抗(レジスタンス)に塗り込められない英雄的なレジリエンス(しなやかさ)について(第8章)。 パレスチナの殉教を遂げたばかりの夫の妻が夜、眠ろうとする子どもたちに夫の話ではなく、抵抗の話ではなく、ごく当たり前の童話を語り、温かなキスを送る。「イカれた状況の中で普通さのかけらを握りしめる、たやすいことではない」レジリエンス(しなやかさ)の空間を築く場面が深く印象に残った。抵抗の渦中にある少数者が抵抗から離れた空間を得て人としてあることの意味。ちょうどこの場面を読んでいたとき、ヤンヨンヒ監督の「スープとイデオロギー」の映画を見たところだった。映画の終盤、多くの記憶を失った母が北朝鮮の忠誠歌を歌うシーンでヤンヨンヒ監督が「こんなになっても歌うのは忠誠歌なのか」と泣く場面が思い起こされた。常に政治的な立場を問われ、抵抗を、戦いを手放すことを許されない少数者が「抵抗」の中にしか生きられないとすれば、それも一つの被支配のかたちなのかもしれない。レジスタンスとレジリエンスの間を行き来する自由の獲得は、支配と抵抗の2極対立から脱出する最初の一歩なのかもしれない。 もう1点は最終章11章で、ハージがレバノンからオーストラリアに移住した祖父がバサーストの旧宅に植えた、地中海的な3本の木、イチジクとオリーブとザクロの木と対面し、根付くことについての洞察を得る。「根付きの感覚(ルーテッドネス)の感覚とは、空間を静的に占有し、そこに縛り付けられて身動きが取れないような感覚ではなかった」それは「一対の翼のような」自分と共に在り(ウィズネス)、人生を駆動する「駆り立てている(Propelling)」として体感する。 この誰かの人生を駆動する故郷による励まし(ルーテッドネス)の力をわたしはすごく最近沖縄で目にしてきたものだった。ボリビアに、ハワイに、ペルーに、ブラジルに移民した沖縄の人々が勿論それぞれの地に根付きながら、数年に1度の「世界ウチナーンチュ大会」で沖縄に戻り、絆を確認し、故郷に抱きしめられまたそれぞれの移民先の土地へと戻っていく。沖縄は送り出した移民に対して「血のつながり(沖縄出身者)」を認めるのと同時にそれ以外の人にも「心のつながり(他県出身者)」、「魂のつながり(移民先の国の出身者)」という言葉を使い、心に沖縄への慕わしさを持っている限り沖縄を故郷(ホーム)とすることを許す。 ホーム(故郷)がそこをホームと思う人に与える駆動力について、それは独占的に奪い合うのではなく分け合うもので、また1人の人にとってホームとはたったひとつを選択するのではなく、複数のホームを同時に持ちうるという帰属の重層性の容認も大切なのではないだろうかと思った。 私が生きる社会はいかにあるべきかと、社会改革の方向性を問われた時、「多数者にも少数者にも駆動力を与える社会」というのは答えとして想定される中の一つであると思われた。 ...
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