西方見聞録...マルコ

 

 

スープとイデオロギー - 2022年07月24日(日)

 や〜今週末、やっといった。ディアピョンヤン、愛しきソナに続くヤンヨンヒ監督の家族の大河映画3作目「スープとイデオロギー」。

「かぞくのくに」も併せてヤンヨンヒ監督の劇場作品は全部行ってしまっている。私はこの20年あんまり熱心に映画館に行っている方でもないというのに。隙間時間を狙ってすごく熱心に追っかけているな〜(ディアピョンヤンだけ、DVDで家で見たかも)

 ずっとヤンヨンヒ監督も、彼女の家族を見守る観客も「なんでお兄ちゃん3人を帰国事業で北朝鮮送っちゃったの?アボジ、オモニ」「あのころは北朝鮮は地上の楽園って声が大勢を占めてて日本社会もそう思ってたけども、こんなに北朝鮮への視線が変わって、今は後悔してるんでしょ」と思ってもやもやしつつ、両親の北朝鮮への「忠誠」を見守っていた。

今回その忠誠の原点として「済州4.3事件」が初めてオモニの視点に寄り添い描かれる。

ヤンヨンヒ監督はいつも自宅のその周りを描きながら100年を超す日本と朝鮮半島の歴史、親子の理解の難しさ、人々の生の人生に食い込むイデオロギーという鋼、と気づくとものすごく大きな絵を描いている。これまでも鶴橋の赤い壁の小さな家の居間から物語は始まり、またラストは居間に帰っていく。しかし途中でカメラは前2作では北朝鮮に渡り、今回は済州4,3平和公園の果てない墓標の海を映し出す。



母の愛しいヒトへの柔らかい愛はいつも複数の鋼のイデオロギーに巻き付かれて痛い。この痛みは朝鮮半島の植民地支配とそれにつながる南北分断、日本では子どもの未来に希望が持てないくらいの激しい差別が彼女の普通の柔らかさに鋼を巻き付けさせたところから生じている。テッサ・モーリス・スズキのいう「連累」を私たちは「オモニの痛み」について負うている。

娘を忘れても忘れない忠誠歌を歌うオモニの声にその痛みを幻視する。

ヤンヨンヒ監督の描く「赤い壁の家から見えた風景」が私たちの世界に広く伝わること願う。在日コリアンの人々の多様性を思うとき、おそらく描かれず失われていく無数の家族の風景がこの社会に眠っている。それをできるだけ知り、理解し、社会に伝わる機会があることを望む。それが伝わることは多くの連累を持つ私たちの社会にとっての希望だと思う。



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