映画評「アクト オブ キリング」 - 2014年04月30日(水) レディスデイの水曜日、朝の講義がGW休講だったので、午後の講義の前にアクト オブ キリング、観に行きました〜(しかしレディスデイ、安い!レディに生まれてよかった!) いやいやすごいもの見ちゃいましたよ。 これはもう絶対必見映画なので以下は映画見てから読むように。 (ネタバレ注意) 撮影の過程で自らの加害をゆっくりと理解していくアンワル、そしてなんでそこでその女装するの?なヘルマン。 とにかくいろんな場面で震えてしまうのだ、震えながら笑えてしまう場面もある。アンワルが「私は罪人なのか」とつぶやく場面では、なんと、あのアンワルのために涙がこぼれた。だが、この映画がスゴイのは単なるインドネシアの虐殺者の告発に終わらず、私たちにも責任の一端を示しながら迫ってくる点だ。 一番この映画の重層的な視点で現場からこっちを突き抜けるように見据えているのがアディ。アディは一人だけジョシュア・オッペンハイマー監督の意図とこの映画が完成したらどういう観られ方をするか、わかっている。なのでオッペンハイマーもこの人にだけは違うアプローチをする。「言いにくいがあなたはハーグの国際法廷で裁かれる可能性はあるのでは?」それに対してアディが言う〜国際法は変わる。アメリカがイラクをありもしない大量破壊兵器を口実に攻撃して、捕虜を虐待して事実を捻じ曲げたように。俺たちを裁くならまずアメリカ人のインディアン虐殺を裁け〜 そう、映画は町のチンピラのアンワルの手でなされた虐殺を告発しているが、そのチンピラをサポートしたスハルト政権とその政権をサポートした先進国に暮らす映画生産者と消費者が何を高くて安全なところから、アンワルの改心を見つめているのだ!アンワルの成した悪はお前たちにつながってる悪だろう!というアディの声は確かに響く。 でもしかし、自らの成した悪を他者の成した悪と比較して、相対化するというのは、自らのなした加害から目をそらすための手段として有効ではあるが(よく日本のアジアにおける加害を語るときに日本人も行っているのを見たことがある)、加害者と被害者の間の解決を遠のかせてしまう。 あの悪とこの悪は決してゼロサムな関係ではなく、ともにそれぞれに検証されねばならない悪なのだ。 アンワルの隣人スルヨノが血を吐くように父の虐殺された状況を語るシーン(このときアンワルの内面で何か変化があったのだと思う)やエンドロールに大量に表れる「匿名(ANONYMOUS)」という単語に今そこに依然として横たわるインドネシアの問題とそれを解決したいと願う人々の思いを迸らせる。 国営放送のアナウンサーがアンワルを番組でもてはやしながら、虐殺の具体的な話になるとあわてて、きれいな話にまとめる。彼女は現政権を支える構造の中に組み込まれた悪を理解しながら、実際のその悪の汚れからは距離を取ろうとする。虐殺が行われていたことを知らなかったと主張する新聞記者もその構造の中にありながら、血の汚れからは身を離そうとしている。 立ってる場所は違うけれど、あれは私たち映画視聴者の姿でもある。殺人者たちが罪を自覚したのならそのサポーターも自らの手についている血について理解するべきだと監督は自分自身とそして映画視聴者につきつける。 途上国の<問題>を描く先進国出身の監督の声ってこれまであんまり共感できなかったんだけど、本作はちょっと違う、と思った。 観るべし。残酷表現はないので親子でもたぶん観れると思う。 ...
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