西方見聞録...マルコ

 

 

対話がなくて、会話と対論がある‐「社会運動の戸惑い」を読んで - 2013年01月16日(水)

 


 ちょっと正月の読書記録。

 来年度はコミュニケーション論とかちょっとこれまで教えたことのない科目にチャレンジする予定なので、巷のコミュニケーション系の教科書に目を通して正月を過ごしていた。

 その中でふ〜んと思って読んだのが平田オリザの「わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か」という講談社現代新書の本。この中でなるほどと思った箇所がある。それは2者の間で語り合うとき以下の3種類の「語り合い」の形式がある、と平田オリザが規定している部分だ。1つは「会話」、もう一つは「対話」、そして今一つが「対論」。

 会話とは特に意見の異ならない場面で2者が行う「おしゃべり」。

 対話とは2者の意見、価値観が異なる場合に行う摺合せ。AとBという意見が交わされて新たなCという意見や価値観が創造される可能性を秘め、対話する者は異なる価値観のものと出会うことで自らの価値観の変容の可能性を潔しとする。

 対論は異なる意見を持つ2者の間で行われ、AはBに敗れたらAに従わねばならない。Bは意見を変えねばならないが、Aはそれまでの意見を変えない。いわゆるディベート。

 で、今、上記3つのコミュニケーションのうち多様な考え方の人々が暮らす近代以降の民主的な場所では「対話」の力が非常に重視される、と平田オリザは指摘している。

 確かに身の周りを見回しても会話と、時々対論は見られるけど、新しい価値観を生み出そうとするような実のある「対話」ってのは確かに難しいだろうな〜と思う。


 上記の平田オリザ本と平行しながら『社会運動の戸惑いーフェミニズムの「失われた時代」と草の根の保守運動』(山口智美、斉藤正美、荻上チキ著、勁草書房)を読んでたんで、本日は平田オリザの規定した会話、対話、対論の3つのコミュニケーションをキーワードに「社会運動の戸惑い」ちょっと感想をまとめとこうかなと思う。つまりここからが本題。前置きが長いね〜。すまないことです。

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 2000年代初頭、男女共同参画条例の策定をめぐって行政側の審議員メンバー入りしたフェミニズム系研究者と草の根の保守活動家の党派的対立が起こっている、とその場にいた人に認識されていた。そこでは互いをフェミナチ(保守からフェミニストを呼ぶ蔑称)、バックラッシャー(フェミから保守派を呼ぶ呼び名)と名付け、それぞれを恐ろしく悪魔的な、そして全国規模で組織化された存在と過度な恐れを抱いていた。そこには2つの党派に分かれた、果てしない対論しか存在せず、自らの党派向けの言葉ばっかりが研ぎ澄まされていく。

 で、著者らは著名な対立の起こった宇部市、千葉県、都城市の男女共同参画条例の作成現場、福井の「ゆーあい福井」の図書隠匿問題などの事例を取り上げ、それぞれの論争にはだれがかかわり、どういう展開をたどったのか明らかにしていく。

 私はこの本に期待してたのは「党派を超えて、こっちの人もあっちの人も悪魔的に相手を仕立てあげてた世界観の誤りに気付けるような、そんな対話のきっかけを切り開く本なのかな〜」ということだった。で、期待通りフェミ論者向けには割と厳しく、ここが間違ってたよ!と指摘してる。大沢真理の「ジェンダーフリーの誤訳」とか「中央集権的な女性解放の教えの伝導(キヅカセ)」(ひいては外国文献からの言葉の移入)と地域でのディスカッションの不足、とか「上野先生、福井の事例は著者の表現の自由論争に逃げたために、地域で読まれるべき男女共同参画の本とは何か、という対話を展開するまたとない機会を逸してしまったよ」とかなかなか舌鋒が鋭い。こうしたフェミ業界への批判的な検討から新たな「対話」が生まれる可能性を感じる。

 でも草の根保守を支えてたみなさんとはインタビューで「会話」が成立したのは分かったけど、それはおしゃべりの「会話」であって異なる価値観をすり合わせるような「対話」になってないようにも思う。インタビューの現場でも突っ込んでもいいし、それを本の中でもっと展開させてもいいのにと思われる突込み不足箇所がいくつか気になった。
 例えば、ジェンダーフリーバッシングの立脚点となった「フェミニストの望む極端な世界」の虚構性だ。これはもっと実証的に検証してもよかったのではないか?男女同室着替えがジェンダーフリー教育の一環として行われたなんてのは虚構だし(単に教室数不足だったという話だったよね)、著者がインタビューした世界新報、日本時事評論が生み出した虚構はその後長く保守派の反動行動の論拠になっていく。著書の中でも「なぜ極端な事例ばかり取り上げているのか?」質問する場面があるが、「議論をセンターに持っていくためにあえて極端な論を投げかけた(とくに保守派の議員には)。」というぬるい問答で済ませている。その極端なレトリックをマジに信じてしまっている人が現在総理大臣になってしまっている現状を考えると、その検証はちょっとぬるいんじゃないかい?と思った。(安倍幹事長(当時)がジェンダーフリーはポルポト政権を髣髴とさせる家族破壊を目指す共産主義者が喧伝している、とか2005年の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」でオオマジに言っちゃってるっていう話がこの新年のGSMLで流れてきてたよね)。

 この「ジェンダー論議をセンターに引き戻すために投げかけた」極端な事例(虚構も含む)が、どう波及して、途中、妄想にジャンプしながら実際の地方政治に影響を与えたのか、もうちょっと検証してページを割く必要性を感じた。実際、千葉や都城ではジェンダーフリーはフリーセックスと同じことなのです(p.123)」とか「ジェンダーフリー推進論者の3段階計画(p.172)」があって、男女共同参画がフリーセックスコミューン建設を究極の目的にしているなんて、激しい妄想ジャンプが観察されるのに、そこへの論評がもうちょっと突っ込んでくれてもいいのにな、と思った。つまりその妄想ジャンプを現実のものととらえちゃってる読者層にも対話のきっかけになるような本ならばいいのにと思ったのだ。だけど、やっぱり妄想を妄想と感知できるフェミ読者層しか読者として想定されてないってところが、ちょっと残念である。

 また、保守的な地域の中央への抵抗の物語として宇部の事例は語られるけど「地方」ってのはそんなに一枚岩なのかい?ってのも、「地方に生きる一婦人」であるところの私としては感じるところ。
 男女共同参画条例があっても、なくても、あんまり実生活に影響はないって言っちゃってるけど、そうかな?今回この本を読んで私の住んでる町の男女共同参画条例を見たけど、まあ全国的に普通にある保守反動でないバージョンの男女共同参画条例だった。で、地方で地域活動してれば、それはそれで日常的に反動なわけよ。たとえば小学校のPTA役員の会長は男で女は平会員で、しかし平会員が実働を担うとかね。そういう反動に出会ったとき、それって条例違反だぜ、って思えるだけでも心に希望は湧くのよ。なので絵に描いた餅であっても進むべき道が条例案で示されてるのって、私は大事だと思う。宇部バーションの条例だったら、地方の生活現場で反動に出くわしたら本当に絶望すると思うわよ。


 保守側に関しては、ただその動きをなぞっているだけで、あまり対話が開かれる可能性が感じられず、残念。でもフェミ論者の特に偉い先生たちに鮮明に反旗を翻したという点は「新たな対話」の可能性を感じる本でした。

 党派を超えて「対話」を開くような研究ってのは、難しいんだな、ということをしみじみと感じました、自戒を込めて。
 


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