西方見聞録...マルコ

 

 

高度経済成長期のファッション業界を舞台に語られる加齢と加害-カーネーション1月〜3月2日ー - 2012年03月02日(金)

 さて朝のドラマのカーネーションが快調です。
 うちではビデオ録画して家族揃って毎日見てます。でもまあ、朝ドラは最後まで観てから評価しようと思っています。最終回でうっちゃり食らわせてくれたちりとてちんの例もあるし(でも今回のカーネーションの脚本はちょっとやそってで崩れなさそうですが)。

 んで年明けからここまでは華やかに成功していくコシノ3姉妹(物凄い姉妹間の葛藤はあったとしても)の活躍を背景にしつつも焦点を当てられていたのは主人公糸子の加齢でありました(いや、周防さんとの恋でしょ〜!という意見もあるが、あれもまた主人公の人を思い、思うがゆえにわかれを選択するという成熟の物語であったと理解しています)。

 自分の感覚を信じて走ってきたのにその頼みの感覚が時代とずれていく事を描いたサックドレスの顛末。自分の感覚がずれたことを自覚した上で、外国語を理解するように若者の夢中になることを理解して乗り切るミニスカートブーム。

 そして本日3月2日の放送では東京を拠点に全国展開を仕掛けようとする長女の計画を「面白いとは思えん」と評価し、「ものづくり」から「大量生産大量消費の資本主義ゲーム」への移行の段階にある婦人服ブームに自らの居場所を見つけあぐねる場面が描かれます。

 で、八重子さんの渇で、最大多数の最大幸福的な「大商い」ではなく、ニッチなニーズにこだわった「ものづくり」にこそ自分の居場所があり、それを実現する拠点として岸和田に残る道が選択されるのかな〜というラストでしたね。

 まんなかじゃなくて端っこに徐々に寄って行く中で、どう自分らしくあるか、働きながら年を重ねる女の生き様がここまでリアルに共感を持って描かれるということは結構珍しいことだと思いました。2010年12月のにやってた子育て期の働く女の描き方もリアルでしたが。来週以降は加齢の過程の女ではなくてもう加齢しちゃってネクストステージな女として糸子さんは登場するわけですね。そちらも楽しみにしたいものです。

 この加齢の描写のほかにも様々な描かれたエピソードがありましたが、私の琴線にふれたのは戦争の描き方でした。

  多くのドラマで描かれる「戦争」はなんか記号のようなのです。8月15日の玉音放送に知る敗戦の悲しみや広島の悲劇がかたられることはあっても、なんか<記号>で、教科書で見る太字記述みたいな、そんなリアルでない描かれ方が繰り返されてきたようにおもいます。

 それが今回のカーネーションでは主に安岡家のエピソードにこれまでにはなかった戦争の描かれ方があったように思うのです。第2次世界大戦と言えば昭和16年の真珠湾戦争で始まったかのような描かれ方が多かったですが勘助がPTSDを患う原因となる日中戦争はそれより前から戦われており、南京大虐殺が起きているのは1937年、昭和12年です。

 「あの子が やったんやな」

 という1970年代の、病床の安岡のおばちゃんの言葉は「戦争の哀しみ」をずっと複雑でリアルなものにしたように思います。

 1970年代というのは日本軍の加害に光があたり始めた時代でもありました。単純な被害者ではなく、わたしたちの加害の先にあった悲劇の痛み、哀しみにも向き合わねばならない、その気づき、その痛みは、単なる被害者としての認識よりずっと深くて、痛い。それでも息子のPTSDやその先にあった死の意味を理解して、おばちゃんが納得し、勘助のPTSDへの対処をめぐって決裂した過去をもつ糸子と深いところで和解する姿が描かれます。

 この描写について論争もあるようですがこの議論のいくつかはちゃんとドラマの語りを読み取っているように思いました(私的にその感想はどうよ?みたいな感想も散見されてはいますが)。

 加害の認識をまるで無かったことのようにしようとする修正主義的歴史観が台頭していますが、無かったことにはできない歴史が糸ちゃんとおばちゃんの和解を通じて描かれていました。

 カーネーションで描かれた戦争の加害は、そのものずばりを描くことよりも、ずっとリアルにその痛みや哀しみを人々に想起させる、ものすごい脚本だったと思います。

 


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