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多文化時代の「われわれ」とは誰か-ヘイトが町にあふれ出した日に - 2011年08月21日(日) 多文化共生、という言葉を使うとき暗黙に文化による境界の存在が示唆される。複数の異なる文化を担う人が共存する、といっているのだから異なる文化と文化の間には境界線があることになる。文化というか民族性(エスニシティ)の境界線が本質的に生来的に設定されているという立場のエスニシティ本質主義(ギアツとか)の考え方がある一方で、文化を担うエスニック集団の境界は政治・社会・経済的な配慮のもと道具的に引かれたもので、その複数のエスニック集団の境界に存在する接合部分で、人は結構自由に行き来する、つまり自らのエスニシティというのは道具的に選択できてしまうものなのだ、というのがバルトのエスニック道具論だ。 日本生まれの外国人の子ども達のインタビューを集めていると確かに境界線というのは本人が選択的に設定していて、時と場合によって視点をさまざまな場所に移動させ、ホスト社会の内部からもエスニックな自集団文化の中からもこの社会を見つめることが出来ることを感じた。そういう視点の移動は物事を立体的に客観的にそして自らの属する集団を相対的に見る力につながる。 また松田素二は、文化本質主義、文化構築主義の2項対立から一歩超えたところに「創発的連帯」という言葉を使って新しい<我々>の存在を示唆する。つまり、「あらかじめ境界やカテゴリーを想定せず、現前の状況において便宜的な対応をする中で暫定的なアイデンティティが生成されたり放棄されたりする不安定な連帯によって開かれた集合」(松田素二著「文化/人類学」杉島敬志編「人類学的実践の再構築ーポストコロニアル転向以降ーP.145より)の存在が新しい文化を担う集団となる可能性を指摘している。 さて、この日フジテレビデモというのがあり、韓国由来のメディアコンテンツとそこから連想される在日コリアンの人々へのヘイトスピーチが町にあふれ出すということが起こった。詳しくはこんな感じ。 あまりマスメディアでは報道もされなかったようだが、なんと言うか、かようなあからさまなレイシスト的行動が黙認されてしまう社会に移行しつつある「今」に戦慄を覚える。 このデモに賛成のスタンスで参加した区議がツイッターで何事か語っていたが、レイシスト的行動を実名で行う人間が公職を追放されないという事実に慄然とする。(匿名のネット空間では以前からこういうヘイトは吹き荒れるが、それは匿名空間だから。実名でそれをやるとその人の社会的な地位が脅かされるというのが私の認識だった。じゃあ石原都知事はなんなんだ、って気もするが、ああいう人に治外法権を与え、その言動がレイシスト的言動の一般化を招いていたという、現代史が幾重にも悔やまれる。) ヘイトスピーチはその言葉が発された瞬間には、標的となったマイノリティを傷つけ、標的とならなかったマイノリティにも恐怖を与える暴力だという認識をもっと共有されるべきだ。そしてすべての人が、事故で、被災で、あるいは老化で、誰もがマイノリティになる可能性と老人というマイノリティへの階段を確実に歩んでいる存在であることに、あまりにも無頓着な「生得的本質論的我々日本人の日本論」の中のマジョリティの自己規定のように思われる。 震災、原発事故以降の社会不安、将来への不安、放射能を垂れ流していることへの各国からの批判、そういう自信喪失、不安、不満を昇華するために無関係のマイノリティをスケープゴートにすることで、高揚感を得、自信を回復しようとする「我々日本人」の存在を感じる。 そうした「本質主義的日本人マジョリティ」が幻視する日本人の枠の幻想性を指摘したい。わたしはヘイトを語る人々の「本質主義的日本人の枠」にからめとられることに息苦しさを覚える。私はマイノリティとしての創発的連帯の側に身を置きたい。女というマイノリティ、子どもをもち仕事をする自由主義経済下の労働者というマイノリティ、非正規労働者というマイノリティ、老人への階段を歩むプレ・マイノリティ、そういう自分の中のマイノリティ性を社会を客観視する力としたい。そして、今回ヘイトスピーチの対象となったマイノリティ集団とそのほか攻撃のターゲットとなりうる多くのマイノリティとの創発的な連帯のもと、「我々」となりたい。 マイノリティへの現実空間での攻撃が始まった2011年8月21日という日付をいつ攻撃される順番がまわってくるかわからないマイノリティとしてしっかり記憶しておこうと思う。 ...
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