西方見聞録...マルコ

 

 

ひとつじゃない-いろいろなグラディエーションの上で場所を選んで立てるといい- - 2011年04月17日(日)

 さて、震災以降、ACのコマーシャルの「ひとつになろう」とか「日本は強い国」とかのスローガンから垂れ流される震災ナショナリズムや政府の中高生向けメッセージとかに見えちゃうPeople in Japan=JAPANESEな感覚にちょっと苦しいものを感じている。

 (ちなみに私は今いたずらに政府批判をして震災以降の状況を政争の道具にすることには少し疑問を持っている。だからこれから書くこともいたずらな政府批判ではなく、パフォーマンスの向上を目指した提言という視点で書きたいと思っている)

 で、中高生向けのメッセージなのだが、わたしはこのメッセージの存在を某県の教育委員会に委託を受けた少数言語翻訳者の方から教えてもらった。その方は某県に多数存在している某国からの子ども達の言語サポートをしている。で、このメッセージを某国語に訳し、外国由来の子ども達、そして日本を終の棲家に選んだその子たちの父母に届けるにはかなり痛い、と彼女は感じている。私も同感だ。

 日本に住む人は日本人だけじゃない。外国にいるのは外国人だけじゃない。両者はぱっきり分かれているのではなく、すごく複雑なグラディエーションを描きながら、時と場合によっていろいろな立ち位置をそれぞれが選択して、そこに立つ、ことが許されているはずだ。

 
 ひとつになろう、というメッセージにあるその単色な感じを受け取ると、反射的に「いやいろいろでいいと思います。」と腰が引ける。

 なんとなく日本人か外国人か、きっぱりくっきり分かれた世界観を前提に二者択一を迫られる感じは震災において、支援者と被支援者をわける感じと似ている。


 例えば岩手でど真ん中で被災しながら、炊き出しに奔走する人は被災者であり支援者だ。東京からボランティアに参加して、被災地を支援しながら、キャパシティビルディングや自己効力感を受け取る学生は支援者であり、同時により大きな輪の中では支援される存在だ。例えば原発から遠く離れているのに福島県の産物であるというだけで出荷が難しくなっている会津の農家は支援者として活躍するつもりでいたのに、風評被害によって被災者の側に位置づけられようとしている。長いスパンで言えば、阪神大震災で震災孤児になった青年は長く被災者だったが「大丈夫、生きていればよいことがある」という彼のメッセージが今東北で震災孤児となった子ども達に大きな支援となっている。

 支援者と被支援者の2極の間には意外と多くの人が存在し、その立場が何ものかによって1本の線のこちら側かあちら側かに振り分けられる。しかし、できるだけ多くの人が多様なグラディエーションの上で自分が何ものかを選べるようにすることで、それぞれの潜在能力を発揮し、それぞれの持てる力を与える側に回れることが望ましいのではないか。被支援者が支援者に変容する「触媒」の必要性を強く感じている。

 被災地の産品を購入するという活動は被災地の生産者を被支援者側から支援者側に回すひとつの道とも言える。

 同じようにPeople in Japan を日本人(JAPANESE)と超訳して、ともに手を携える仲間を限定するメッセージは潜在的な力を持つ層を薄くする。すでに多くの多様な人が復興に参加していることを認識し(例えば、東北の朝鮮学校が周辺の地域社会に、焼肉の炊き出しを行い、阪神大震災のときはベトナム語など多言語地域FM放送の実現に神戸の民団が大きな支援を行った)、多様な人々ともに成し遂げる復興を通じ、だれにとっても住みよい社会づくりへとつなげていく、今はとても大切な時期なのではないだろうか。


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