西方見聞録...マルコ

 

 

東森おじいさん - 2010年05月01日(土)

 さて、連休。昼間は子どもたちとぶいぶい外遊びをしているが、夜は密かにDVD鑑賞活動である。
 とりあえず、ミリオンダラーベイビー、とチェンジリングを観た。

 両方ともクリント・イーストウッド監督作品である。

 イーストウッド作品は「グラン・トリノ」以来、「硫黄島からの手紙」「インビクタス」そんでこの2本と観て来たんだけど、こう、なんと言ったらいいのかな?彼はステレオタイプ化されている人、あるいは人々の「個別を見る機会」、と言うか「背景の可視化」というかレッテルとではなくて個人としてのその人々と私たちを出会わせてくれる映像作家だと思う。

 ミリオンダラーベイビーは貧困家庭で育った、そして母親や家族からの精神的虐待を受けてきた女性が、どんな状況でも自らの才能と信念を恃みに自らの「尊厳」を守り通す話。

 主人公、マギーのあり方と対比的な母や妹の描かれ方、あるいはボクシングジムの群像からアメリカ社会の底辺で暮らす人々のきれいごとだけではないリアルさが描かれる。で、その中でも主人公の人生のあり方の清廉さが立ち現れてくる物語構造にぐっとくる。

 チェンジリングは息子が犯罪に巻き込まれたシングルマザーという立場の女性(クリスティン)が警察権力から「いうことを聞け」と圧迫を受けながら息子の捜索を正常化させるために戦う物語。警察の不正追及する牧師と共闘しながら、牧師の目的は彼女にとって手段でしかないのが、後半明らかになってくる。ドラマの山場も警察の不正追及なのだが、クリスティンの目的は警察の正常化による息子の捜索の続行とそして奪還にある。そしてその目的は彼女の様々な戦いの場での強さの基礎になっている。

 貧困層の人々、犯罪被害者のシングルマザー、そして「グラン・トリノ」ではラオスからのモン族難民、「硫黄島からの手紙」では日本帝国軍人、「インビクタス」では今までハリウッドでは記号のような描かれ方をされ続けたマンデラとアパルトヘイトを、ステレオタイプではなく、記号ではなく、血肉の通った顔のある存在として多数者に理解されやすい形で提示したイーストウッドの映像作品をこの後も1本でも多く観たいと思った。

 ちなみにイーストウッドの映画を売るための仕掛けについて、ちょっとだけ。すでに作家として名声を築いているとはいえ、ヒット作品を生み出すための努力って大変だと思う。売るための仕掛けって結構あると思う。

 特にグラントリノはモン族が主題といえば、かなり売るのがむつかしそうなテーマだ。で、私は友人の韓国語研究者から意外な話を聞いた。彼はモン族なんて全然興味がなかったのにグラントリノは「行かざるを得なくて、行った」って言うの。なんで?って聞いたら「車が好きな人間でグラントリノ、って名前出されて平静を保てる人間は少ないし、車好きってすごくたくさんいて、たくさんの友人が題名に誘われていったよ。自分は題名に誘われて行ったけど、映画館をでるときにはモン族にすごく興味を持ってしまった」ってことでした。へえ〜!

 日本帝国陸軍の個別を描いた「硫黄島からの手紙」、も「父たちの星条旗」とセットにすることでアメリカ人視聴者も硫黄島攻防の両サイド観たくなるヒトっていると思う。私も遠からず、父たちの星条旗、観ると思うし。

 そういうわけで、大勢を動員できる東森氏の映画、これまでのもこれからのも楽しみに観て行きたいと思う。

追記Eastwoodであって Eastwoodsではないので、東森おじいさんではなく、東木おじいさんが正しいんでしょうか。でも読みにくいですね>ひがしき?トウボク?

追記2 ミリオンダラーベイビーのラストに関してはいろいろな論争があったと、WIKIで読みました。全身不随でも、自分らしさを模索しながら生きている人には確かにあのラストは不快かも。そして現在の医療に関する法律と映画世界の齟齬も、なるほど。それでもマギーが次の人生を思う余裕もなくすほど、とらわれてしまった栄光の強烈さ、それが伝わる物語でもありました。


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