西方見聞録...マルコ

 

 

かたくななワタシ - 2008年01月31日(木)

 映画サラエボの花、に、どうしても行きたくない。

 いつも推薦映画が必殺で面白い映画の師匠に誘われても行けない。朝日の新聞評にガクガクゆすられても、尊敬する友達の感動したという日記記事を読んでもやっぱり行きたくない。

 名画見ると論文執筆中の鬱っぽい内省的な自分が名画の感動に持っていかれちゃうから、とかD論で忙しいからあ〜と〜でとかいろいろ言い訳してるけどきっとホントはそこではないかもとこのごろ気がつき始めた(言い訳してるときはホントにそう思ってたんだけどさ)。

 ボスニア内戦で「民族浄化」の名の下に行われた強姦の末生まれた娘と母の葛藤、ときく。すごく見に行きたいな、と思うと同時にわたしはお日様の下であっけらかーんと語られた少年の話を思い出す。実際彼から聞いたのは私じゃなくて同僚なんだけどさ。

 「俺んち元ウガンダ難民で、逃げるときタイヘンでサ、かあちゃんレイプされるし、弟は生まれるし、もうあのころはタイヘンよ。ケニアは平和だよ、ほんと。」ってセカンダリースクールの男の子がにこにこ語って返事に困っちゃったよ、って実際その話を聞いた同僚から聞いたんだわ。

 なんか「質」として語られる白い悲劇と「数字」でしか語られない黒い悲劇の格差に心が不買運動してるのかな、と、ふと思った。混迷を深め続けるケニア情勢を追いながら、やっぱり「サラエボの花」を見に行くのはやめとこう、と振り子が振れる。なんか間違ってる自分も自覚してるけど、でも間違ってるなりに、動けないのだからしょうがない。


ちょっとだけ追記
 アフリカの悲劇ってなんで「やるかやられるか」みたいな感じでしか取り上げられないのかな、って疑問を持ってます。そうじゃなかったら、単なる背景になっちゃったりとか。

 ボスニアの民族浄化だったら個人的な実感を伴った「母と娘の物語」って感じで平常心でだって取り上げられるのに。それでこんなに極東の島でも興行されるのに。

 アフリカが舞台だとなんで悲惨さを前面に押し出して過剰に演出されちゃうのかなって。ウガンダ少年の家族の物語はどんな風に映画化されたら商業映画ベースに乗るだろう。

 情報消費者が求めるアフリカ、そしてその想像のアフリカを演じるように、ルワンダ報道をなぞるように悲惨な状況が局部的に散見され始めた現実のケニアを前にたぶん途方にくれているのだと思います、私は。



 


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