「テヘランでロリータを読む」を読む - 2007年03月14日(水) mixiに書いたレビューの再録です。向こうを読んだ方はごめんなすって。 冒頭2枚の写真の描写がある。1枚は黒いコートとスカーフのイスラム女性の定められた服装の著者とその教え子たちの写真。もう一枚はコートとスカーフを脱ぎ去った彼らの写真。黒衣の下にオレンジのぴちぴちのTシャツとジーンズとブーツを彼女らがつけていたなんてぜんぜん想像できなかった。 そんなふうに私たちが知らなかったというか黒衣のイメージでしか捉えていなかったイラン女性たちがそのベールの下の姿を自らの声で「こうなってるんです」と表現した書。 イラン女性たちが1960年代は欧米とほとんど変わらない自由な状況にあったのがイスラム革命後どんどんと自由を奪われていく様子を当事者の目から描く。 それもただ嘆くのでも怒るのでもなくさまざまな文学作品にその思いを仮託して読者に投げてくる。これは響く。 ロリータでは犯罪者ハンバートが12歳のロリータに自らのゆがんだ少女像を押し付ける姿にイスラム指導者たちがあるべきイスラム女性像を女たちに押し付ける姿を重ね、ギャッツビーでは夢はかなったとたんに陳腐化し腐敗するという作品のテーマをイスラム革命が成し遂げられた瞬間から腐敗し堕落していく姿に重ねる。 自由がどんどん制限されていく中、日常に流されながらも、デモに参加し体制に否を叫ぶ若い女性大学教員の著者がどのようにその自由の剥奪と折り合いまた折り合えなかったかが刻々と語られる。 また教え子の女子大生の射殺のシーンではその遠い国の黒衣の女子大生が『ギャツビー』を読んで討論したということに、つまりわたしたちと同じ文学をともに分かち合ったということに『遠い国の話』ではなく『同時代を生きた同世代の悲劇』として激しくわたしたちを揺さぶる。 作中、著者は繰り返し「優れた文学」の持つ力を説く。 「優れた文学によって呼び起こされる共感力・想像力が多様で複雑で多面的な人間存在を共感的に理解することを助け、白と黒で世の中を分けるような単純な見方を戒める」 「優れた文学の核心には共感がある。他者の苦痛に気づかないことこそ、最大の罪。見ないということはその存在を否定すること」 共感力と想像力の欠如による単純な世界観が生む争い。今わたしたちの生きる現実にも切実に迫ってくる問題だと感じた。 ...
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