西方見聞録...マルコ

 

 

エンパワメント - 2005年10月22日(土)


さてこの日は前々から日記・掲示板でも騒いでたが、マルコ14年ぶりの学会発表のために名古屋へと進路を取った日である。密かに途中で神戸によって謎活動なんかもしたので名古屋到着はかなり遅い時間になった。

道中、マルコは大変緊張していた。なんつうかここで沈んでは二度と浮き上がれないんではないかなんて変なことも考え、寝不足もあいまって『きゅ、救心がほしい』と思うくらい心臓がバクバク言った。

ふと大和路快速でとなりに座ったご婦人が読んでいる新書版が目に止まった。
しっかりとカバーがかけられて題名は見えないが、栞代わりにカバーを読んでいるページにはさんでいるので、カバーのおりかえしたところに印刷されている著者の写真が見えた。なんと大学時代の先生のM田先生の著書だった。M田先生はマルコ卒論の直接の指導教官ではないが、マルコが当時研究していた文化人類学の関連隣接分野、日本民俗学の教授だ。でも卒論指導とか調査実習は文化人類学と民俗学の教官が入り乱れてコトにあたってくれるので、一年生のときから調査実習で寝食を共にし、卒論指導ではかなり激しくも厳しく指導してもらったりした覚えがある。

M田先生は日本の妖怪研究のかなり先端を走っており(なんちゅう立ち位置だ!)山の霊異や山の民のことなんかも研究していた。マルコが一年生のときの山村での調査実習で、2年生の人格が破綻していた某先輩がマルコを山の中に置き去りにするという事件が起きた。各集落ごとに調査に入っていたメンバーを某先輩が5時ころ車で回収して歩くことになってたのだが、ほんの3分遅刻したマルコをおいて、車で1時間以上かかる宿泊村まで帰ってしまったのだ。公共交通がまったくない地域での調査だったので、もうマルコに出来るのは真っ暗な山道を宿のある村までとぼとぼ歩くことだけだった。ちなみにこの某先輩は翌年も違う女学生に同様の嫌がらせをし、大学院入試の際に「キミは人間的に問題があるから」と二年ほど連続して落とされたという後日談がある。でも今はこの某先輩も某女子大で助教授をしているらしい。某女子大の学生がアカハラに合ってないか心配だ。

さてとにかく、真っ暗な山道を某先輩への恨みと絶望を抱いてとぼとぼと歩き出したマルコの後ろからほとんど車も通らないのに、タクシーが1台追い抜かしていった。タクシーの後部座席には見覚えのあるM田先生の特徴ある無毛の後頭部が見えた。マルコは叫んだ「M田せんせい〜!」そして走った。荷物を全部そこに投げ捨てて。ここでおいていかれてはたまらない。果たしてタクシーは止まり、M田先生はマルコをタクシーに乗せてくれた。

「真っ暗な、人家もない山中で女子学生を拾った」と言う体験はM田先生にとってもいかにも民俗学チックでなんだかうれしかったらしく、先生はこのエピソードを長く授業ネタに使った。「本当に私が経験したんですがね、一人の女の子が山ノ神に呼ばれたのか、フラフラと山道を歩いていたのです。そこを私が通りかかって助けてあげましてね。それが今4年生のマルコサンなんです。あのとき助けてあげなかったら今頃彼女は山姥にでもなっていたのか、、、」ってな感じのかたりになっちゃうわけだ。

そのうえマルコが卒論で山中漂泊民の定着戦略なんて取り上げたもんだからM田先生はさらに大喜びでマルコが4年生のときは「山の民・山の文化」と言う特講をして、マルコが授業に顔を出すと「この人ですこの人です。僕が山から連れかえったのは!」と下級生に紹介してくれた。

とにかく山中漂泊民を扱ったマルコ論文はわりと評価が高くて、その年の人文学類の代表で地元のケーブルテレビにも紹介された。M田先生も散々辛口なことを言った後に「でもすばらしい青春の記録になったね。次は青春じゃなくても良いものを書いてね。」と励ましてもらったのを憶えている。

その後M田先生は他大に移られ、マルコが東京で働いている時代に亡くなられた。葬儀に参列して、ちょっと若いころのなんじゃないコレは?と言う遺影に対面したのが最後だった。

そのM田先生の顔写真を大和路快速でとなりに乗り合わせたご婦人の手にした新書のカバーの折り返しに発見して、マルコはなんだかほのぼのとエンパワーされた。もうとっくに青春ではない。そして長いブランクを経ての復活なので研究になれているわけでもない。青春ではないなりに不慣れななりに、今の自分の出来る発表をしよう。そう思って東へ通じる電車に揺られた。




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