4月の晴れた空のした(番外編)〜私が今井君だったころ - 2004年06月12日(土) もうこの日記実名で書いちゃおうかな。読む人が読めば私が誰だかばればれです。 前回の「いちかばちか」で挿入しようと思った経験談が意外と長くなっちゃったので番外編として別編集しました〜。 私事で恐縮ですが、私は10年ほど前2年間アフリカで青年海外協力隊やってました。青年海外協力隊はご存知外務省派遣で公用パスポートもってお国を背負っていくのです。そんなわけで出発前は天皇一家と歓談させてもらったり、無事任期終了すると外務大臣から感謝状もらったりします。わたしも今話題の浩宮さんと話しました。賢い感じの人で、ものすごい博識でした。あと河野洋平名義の感謝状があります(田中真紀子の感謝状の方が後で話のタネ的には受けたかも、残念)。 任国のケニアでは協力隊も専門家もその他政府派遣の人々は治安の維持されているケニアの南半分の地域でのみ活動し、北半分への立ち入りは基本的に禁止されていました。行きたければJICAケニア事務所に内緒で行ってねってかんじでした。 治安の維持されている南半分は現政府の支配エリアで、北半分の遊牧民の皆様がいるエリアはソマリア・エチオピア・スーダンに国境を接し、とくに当時アメリカのPKF部隊が入っていたソマリアに近い北東部にはロシア製の大変よろしい武器を持った盗賊の皆様がいらっしゃるので絶対行くな、と厳命されていました。 マルコはセントラルハイランド(中央高地)の北東部の街で勤務しており、私の住む街の30キロほど北にある街が日本政府関係者が行ける北限だったのを覚えております。 しかし旱魃で餓死の危険性が出たり本当の支援が必要なのは北半分に暮らす人々だったと思います。旱魃が来ると遊牧民の皆様の間では牛泥棒が流行って治安が麻のように乱れると言う新聞記事を読んだりしました。 さて私の街には時折日本人のNGO活動家(仮にOさんといたします)が訪れていらっしゃいました。そのOさんはソマリア国境にほど近いガリッサと言う町でNGO活動をなさっておられ、ケニア人の奥様が私の住む街で小学校の先生をなさりながらお子様と暮らしていたので一月に一回くらいガリッサと言う街から400キロほどの道を超えて私の街に通っていらっしゃってました。Oさんはガリッサで小学校建築や給水活動をなさってました。外務省の「草の根無償」と言うスキームの補助金を年間100万円ほど得て活動なさってました。 ガリッサと言う街はもちろん私たち政府関係者にとっては禁足地です。うかつに行って事故やら盗賊に会いすっぱり死ねれば良いが、生き残って帰ってきて「クレジットカード盗難の被害届」でも出してJICAケニア事務所にそんな場所行ったのがばれれば即帰国を命じられたことでしょう。 ところがこのマルコは親にもあめでおさんにも内緒にしてたんですが実はガリッサに参りました。Oさんが帰国間近のマルコに「JICA関係者は誰もいらしたこと無いとおもいますよ。一度最前線も見といてはどうですか?」と語られ、マルコも「やりたい仕事は大体終わったし、強制帰国になっても良いから行ってみっか?」ってな感じで参りました。すいません>エルザさんおよび関係者の皆様。あの時私を駆り立てたものは何だったのでしょう。私自身ODA関連の仕事の限界とNGOとして国際協力に携わる可能性に目覚め始めた時期だったと思いますが多分「見ておきたかった」んだと思います。もしソマリアゲリラにつかまって身代金要求されてたら自己責任論噴出でも文句の言えない状況でした。でもね〜、爆弾一発もしくは銃撃数発で死ぬ可能性ってのは考えたんだけど、人質ってあんまり考えなかったな〜。 ガリッサは砂漠の中にあり、街の中はケニア国軍が駐留してしっかり治安が守られているんですが、途中の街道沿いがやばいんです。ガリッサから南に150キロほどの街がケニア人レベルでの最後の治安維持エリアでした(JICA関係者レベルではそこも禁足地だったんですけど)。その最後の街とガリッサの間の街道150キロの道中がいわゆる「いちかばちか」エリアでございました。 毎日午後一時ころに最後の街とガリッサの間で定期バスが行き来します。その定期バスが(3台ほどの大型バスなんですが)、前後をケニア国軍が機関銃つんだ2台のジープでガードします。そのガードされた定期便に合わせて2つの町を行き来する商人のトラックやNGO関係者のジープやら十台の近い車がキャラバン組んで砂漠の街道を疾走するのです。まあ国軍がガードしてるんですがソマリア流れのロケット砲とかを盗賊さんが打ちこんでくることもあったそうです。私が行ったときは何事も無くガリッサに到着しました。 ガリッサ市内はそれなりに平穏で、暑かったけどNGO活動をまじかで見たのはあれが初体験だったかもしれません。 退避勧告とか出してる外務省の人は現場まで行っているのかな?ガリッサにはきたこと無かったみたいでした。そこで10年近く働くNGOの人に補助金を出し、彼らから受け取る報告書が多分最も有力な情報源だったのではないでしょうか。 退避勧告の出ている地域に民間人はふらふら来るな、って言われると、あのガリッサの日差しとOさんの横顔が目の裏に浮かびます。マルコ26歳の乾季の終わりでした。 ...
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