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イベントの消費者として生きるⅡ-祈りの不在 - 2003年02月13日(木) ちょっと長いタイトルですが正しくは 『地域伝統の担い手とならず、イベントの消費者として生きる』です。 早い話が恵方巻き後日談です。 関東にはない!と言い放った恵方巻きですが、このごろは商業主義との幸福な出会いを経て全国でイベントとして広まってるそうです。 時々掲示板に現れておられるれいこな女史の分析によると下記の通り >私が分析するに、最近は「内食」のアットホーム志向が高くなっているので、 >イベントものを欲した寿司屋とコンビニが結託して >広めたのではないでしょうか? >去年の恵方巻も、イベントとして実験的に試しただけですから、 >ハロウィンのかぼちゃと同じで、ありがたみもなんにもありませんわ。 おお、明晰。 商業主義と出会って地域の伝統は外へと出て行くのでございますね。 さらにれいこなさんが探してくれたこのページは泣かせます。 恵方巻きな方々(いるのか?)はぜひご一読を。 さてここで完結するかと思われた恵方巻き談義ですが 私がれいこな掲示板にて 「太巻きでおなかいっぱいなのに まだこのうえいわしをたべろというのか」と言う意のことをかいたところ 関西圏で青春を送られたご友人@れいこなから 「縁起物を『たべきれない』というのは罰当たりになりかねない」 というご指摘を受けました。 私にとっては太巻きまるかぶりは 「なんだか面白そうだからやってみよう」 と、果てしなくイベントなのです。 私の暮らす斑鳩での雰囲気はご指摘の通り、マジな儀式なわけです。 確かにここで生きていくからにはわーいわーいという雰囲気をあんまりみなぎらせないほうが人々の顰蹙を買わずにすむでしょう。 そこではたと気付いたのですが 私にはマジな儀式がないのです。私には儀式につきものの祈りが欠如し イベントの興奮だけがあるのです。 正月も盆も節分もバレンタインデーもすべて等価なイベントなのです。 じいさんの初盆で都内の実家の前で送り火をたいて 父母は高校生だった私に火の上を飛ばせました。 「これってどこの風習よ。」と冷静に話し合いながら。 父は福島出身と静岡出身の祖父母から生まれ 母は大分出身と大阪出身の祖父母から生まれてます。 福島の祖父はさらに福島と京都の出身の曽祖父母に因数分解されます。 祈りを伴うような地域伝統を私は誰からもなにも受け継ぎませんでした。 伝統行事を実行するとき 「おばあちゃんの在所ではそういうことをやるわけ?」という冷笑、 つまり相対的な価値観にさらされ 伝統行事を放棄したのでしょうか。 あめでおの実家にも私の実家と大変似た伝統行事へのさめ方を感じます。 あめでお実家は100%伊賀上野人ですが 転勤に継ぐ転勤で一家は様々な地域を経巡るうちに相対的な文化観を 獲得したのでしょうか? れいこなさんも「戦争の分断」のせいか あんまり継承してないと自己分析しています。 斑鳩はなんだかいろいろ継承しています。 そこここに祈りがあります。 わたしは昔まじめな民族学徒だったころあちこちの祈りを拾い集めて研究していました。漁村で夫の漁の無事を祈る女たちにも、山ノ神を神社からお神輿にお移し申し上げる木地師の人々にも出会い、畏怖と尊敬を抱いていました。 斑鳩の祈りにイベントの高揚感だけを求めず、 当事者の祈りに畏怖を覚え、それを支える文化を紐解いていきたいものだと思います。 ...
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