完璧じゃないけれど、十分だった。
「ロードオブザリング」の第三部はスペクタクルだった。 見せることに全力をそそいでいた。 映像で、指輪の世界を見せる。 PJのイメージをスクリーンに描き出す。 そのことに全力をそそいでいた。
その流れの前では、ストーリーは従属せざるをえない。 あのシーンもこのシーンもあっという間に流れていく。 ひとつひとつのお話の人と人との細やかな心のふれあいは 十分に語る時間がない。
惜しげもなくばらまかれているカケラに私はため息をつく。 役者は揃っている。背景もできあがっている。でも、時間がない。 このまま終わってしまうのか?それでもこれだけやったんだから、 それはそれですごいことだと満足すればいいのだろうか などと、落ち着かない気持ちで見ていたが、 やがて物語りは滅びの亀裂に到着した。
フロドの顔が変わる。 イライジャのフロドが原作のフロドに重なる。 その瞬間に、ああこれで十分だ、と私は思った。
フロドは笑っていた。泣いているような笑顔だった。 フロドはそんな顔をするようなことは何一つしていないのに、 彼は選ばれてしまったのだった。
原作のあのシーンは今も心にひっかかったトゲだ。 映画はそれをイライジャの姿で描き出していた。 それだけで十分だった。
そしてたくさんの物語を端折ったのと対照的に エピローグの部分は心をこめて描かれている。 三人の脚本家たちはよくわかっている。 ここの部分をつめたり削ったりすることはできないことを。 その美しくて悲しい場面を見ながら、この結末でいいだろうか? と思ったことは、これから私が考えなくちゃいけないことだけれど。
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