【復活!】ダイエットなDIARY
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2002年08月23日(金) 鏡花




来週また飛騨に行くので泉鏡花を読んだ。

『高野聖』である。






泉鏡花は金沢に家があり、北陸出身の幻想文学者として有名である。

有名ではあるが、恥ずかしながら今まで読んだことはなかった。





関東から飛騨高山へ行くのにはいろいろなルートがあるが、もっともメジャーなのは名古屋経由で岐阜を抜け、北上してゆくルートである。

古くは国鉄高山本線が通っていて、現在ではワイド・ビューというJRの特急で、名古屋から富山まで抜けることができる。

富山を日本海沿いに西へ下りたとこが金沢である。日本海沿いに北上すれば新潟へ抜ける。

高山本線は山間を縫うようにして、飛騨川の渓谷沿いを北上してゆくまことに旅情ある鉄道である。

電車ではなく鉄道と書いたのは、これが電化されていないディーゼル機関であるからだ。




飛騨路は、その険しさにもかかわらず、古来から交易の重要な経路であったらしい。


それは関東・近畿・関西・北陸・越前越後を結ぶ要路であったからであろう。



険しいといえば、飛騨から長野へ抜ける路もある。

これは乗鞍を抜け、北アルプスを縫うように山を東に抜ける。






『高野聖』の舞台となるのは、この飛騨路であり、長野へ抜ける山中の路である。




主人公は閑散とした高山本線に偶然に乗り合わせた僧侶と知り合いになる。


主人公はこの僧侶と宿をともにすることになる。

このくだりが面白い。

主人公は神経質で夜はなかなか寝付けない。

そんな寝られぬ夜に話し相手が欲しいので、その約束の下に同行するのである。


さて、宿に着き、夜半になると、約束どおり、僧侶は昔語りを始める。

その、僧侶が若い頃に体験した奇妙な出来事が、本編の主題である。







日本の幻想文学といえば岡本綺堂も有名であるが、いずれも明治の人である。


江戸期のメンタリティを残しながら、明治以降の文明開化、モダニティの波を経験してきた知識人である。


西洋で言えばゴジック・ホラーなどといわれる分野であるが、近代化・合理化する時代の闇の部分を受け継いだものだ。

夏目漱石の『倫敦塔』なども印象深い作品である。



さて、これらの作品を以前にもお知らせした青空文庫で読んだ。


著作権は作者の死後50年で消滅する。

そうした作品のEテキスト化を進めているサイトで、非常に便利である。

しかも完全無料で、会員登録すら必要ないオープンソースなサイトなのである。


Eテキストは、テキスト、HTML、エキスパンドブックの三つの形式が用意されている。


お勧めなのはエキスパンドブック形式である。

これはなるべく書籍に近い形で閲覧できるようにしたファイル形式で、専用のエキスパンドブック・ブラウザーによって表示するものだ。

このソフトも無料でダウンロードできる。

ソフトは32bitで作成されており、Winなら95、98、ME、XPといずれでも動作する。

また、本来MAC用に開発されたソフトなので当然MACでも動作する。




やはり日本語は縦書き表示が読みやすい言語であり、それは、単に国語の教科書や書道などで幼児期から慣れてきたものである以上に、言語の特性でもあるからだ。

このような配慮もサイト作成者の読者本位の姿勢の現れであろう。




そもそもHTMLをはじめコンピュータ言語は英文を基本にしている。

それはプログラミング言語自体の特性によるものである。

つまりコマンドという概念自体が単語間をスペースで区切る言語によった発想なのである。

HPなどを作っているHTMLも、ダウンロードされたファイルをHTMLタグによってブラウザが表示しているだけだ。




理数系の場合の教科書や論文が横書きであるのも同じ理由だ。

数式を縦に書くことは構造上できないからである。

最近では、文系の場合にも論文では横書きが普通である。

これも参照注などの記号的部分が横書きのほうが都合がいいからである。

そういう場合はオレも基本的には横書きを使う。




アメリカのMITには、すでに半ば伝説と化している天才プログラマーがいる。

彼は中国系で、現在、基本的なプログラミング言語自体を中国語で開発中である。

この開発はおそらくコンピュータ・プログラミングに革命的な変化をもたらすだろうと言われている。



アラブ言語は右から左へと読むわけだし、中国語には日本で習う漢文のように返り点などというものもない。

それらは言語の特性なのである。

こうした言語の特性は、書き言葉の場合、単に表現された意味を伝達する以上の働きをしている。

英文などの表音文字であるアルファベットをレターズlettersというが、漢字などの表意文字はキャラクターズcharactersというように、絵画的な意味までも伝達しているのである。

その意味でも言語の特性は大切にすべき文化的要素である。


同じ表音文字を使用する言語同士ですら、たとえばフランスでは米語を文化帝国主義であると非難する声が高い。


ラテン語などは現代までも厳格に保存されてきた言語のひとつである。


別に縦書き主義というわけでないが、技術的な問題がクリアできるのであれば、長い文章を他者に読んでもらう場合には、縦書きにする必要が日本語の場合にはあると思う。



言語特性は、いってみれば失われつつある文化的特性であり、保護の必要があるという点では、メダカと同じ絶滅危惧種なのである。





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