悔しくて寝られない - ミャンマー - 2003年04月04日(金) 今回はビルマ時代のミャンマーのサッカーをば。 --- ■サッカーのドリームチーム ミャンマー・スポーツ界の花形は、なんといってもサッカーだ。 ミャンマーでは、サッカーの試合があると、老若男女・ 貧富の差問わず、常にグラウンドに人が集まる。 それが例え草サッカーであったとしても。 Monywa管区の年季の入ったサッカーファンは、試合で 負けると悔しさで寝入ることができなかった、と 語っている。 1920年代から1930年代にかけて、サッカーは人々に最も 関心のある出来事だった。 当時のサッカーには監督がおらず、ベテラン選手が監督 として兼任した。 だが、B.A.Aグラウンド(現在のアウン・サン・スタジアム) で戦うチームは、高いレベルのチームだった。 当時の強豪チームには、Customs、Police、Railways、Port、 Friends Union、the Royal Scotsなどがあった。 そんな中、レベルが高くて強かった"Varsity Team" (ラングーン大学)を忘れるわけにはいかない。 チームはラングーンのサッカーファンに特に愛された チームだった。 Varsityが勝利した時には、学生達が熱心に 「♪バーシティー、バーシティー、ラーラーラー♪」と 勝利の歌を歌った。 サッカーファンは学生達が勝利に酔いしれる様を楽しみ、 そして選手も学生達をも応援したものだった。 ヤンゴンのアウン・サン・スタジアムでは、ミャンマー代表 が重要な国際試合で決勝点をあげると、スタジアム中が喝采 の声でとどろき渡り、そして国中が歓喜の声をあげたもの だった・・。 この光景は、60年代から70年代にかけてのものであり、 その頃はミャンマーサッカーの黄金期であった。 当時はアジアの中でも強豪とされており、ヤンゴン、バンコク、 ジャカルタ、マニラ、ソウルでの大きな大会では入賞していた 時代だったのだ。 当時の選手の何人かは、天に昇るような喜びを覚えている。 選手達が行くところ、どこでもファンは彼らに賞賛した微笑を 浮かべ、外国の都市を訪問した時は、心からの暖かい挨拶を 受けた。 その暖かさは、選手達に外国であることを忘れ去せるほどだった。 各大会から帰国すると、選手達には盛大な歓迎が待っている ものだった。 少し例を挙げれば、ミャンマー代表は、アジア・チャンピオン シップ・カップでは’66、’70年の2度に渡って優勝した。 ムルデカ・チャンピオンシップ・カップ、東南アジア・チャンピオン シップ・カップ(SEAP Games)、パクチョンヒ・カップ、ジャカルタ・ カップという大会でも良い成績を収めていた。 ミャンマーのユースは2度アジア・チャンピオンカップで 優勝し、4度の共同優勝、1度の準優勝を収めたのである。 (以下略) :http://myanmartimes.ofmyanmar.com/myanmartimes2-25/Sport/the_best.htm. ----- この文のあとは、バーシティーの選手紹介で、ある選手は シュートでネットを突き破った(当時はナイロンじゃなかったから) とか、またある選手は人気俳優になったりとか、結構面白いので ありますが、まぁ、今回は省略。 ビルマの頃は、サッカー強かったんだよなぁ。 これ読むと、人気もあったみたいだし。 もうミャンマーのおっさんのサッカー見る目とか、 肥えまくっているかもしれん。 歴史が違ってたら、今ごろはマレーシアとミャンマーが W杯出てるかもしれん・・ つーか、歴史が違ったらなんていったらフィリピンだって ブルネイだってそうだからな。 どうでもいいけど、東宝の「宇宙大戦争」(’59)という映画の ラストシーン近くに世界中の指導者が演説する、みたいなシーン があり、その中のひとつにビルマらしき国があったりするのです。 まぁ、世界中、ということで出てくる国が、インドと中国・アメリカ そしてビルマという感じでありました(他にもあったかも)。 当時の日本の"世界"は、アジアと米国で手一杯だったんだよなぁ。 きっと。東洋一とかいう言葉もあったしな。 そんなこんなで、古豪・ビルマの血を引いたサッカーが、 もしかしたら日本で2回も観られるかもしれんのですよ! (ミャンマー五輪代表とバングラディッシュ五輪代表の勝者が 日本に来るのです。H&Aじゃなくて、国立と味スタで2回 やるっす) しかもミャンマー、A代表の選手の多くがU22です。 五輪代表=A代表’であります。 ちゅーわけで、ミャンマー五輪代表は頑張って日本に来てくれ! 俺はすでにチケット買ったぞ! ...
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