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 エドガー・ミント、タイプを打つ。/ブレイディ・ユドール

出版社/著者からの内容紹介
ぼくは7歳のとき、郵便配達の車に頭を轢かれた。
傷つき、負け犬と呼ばれ、はみだしそうになっている登場人物たち。切なくて可笑しくて、じわりとあなたの人生に染み込んでくる、不思議な味の傑作小説。

◆ときに細部にわたり、ときに走る……完璧なバランスで積み重ねられる言葉と文章。ちょっと変わった主人公を中心に展開するストーリーは、希望であり、痛みである。
   Los Angeles Times
◆この主人公には実在のモデルがいるのだろうか……。そう思わずにいられないほど、心を強くつかんで放さない、まれにみる傑作。
   The Times(UK)
◆甘くせつなく、そしていつしか元気づけられる
   New York Times Book Review
◆一歩下がって、深呼吸をしよう。そして携帯の電源を切り、友達にもしばらく会えないと連絡しよう。エドガー・ミントが体のなかに入ってきて、脈動をはじめる。そして、人生のたまらなく可笑しくて切ないものが目の前で繰り広げられる。
   Santa Monica Mirror

内容(「MARC」データベースより)
白人とアパッチのハーフの主人公エドガー・ミントは7歳の時に郵便トラックに頭を轢かれる。奇跡的な回復を遂げるも波乱万丈の人生が彼を待ち受けていて…。切なく可笑しく、じわりと人生に染み込んでくる、不思議な味の物語。


自分は知らない自分の死。七歳で郵便集配ジープに頭を轢かれたエドガーは、自分が死んでいるあいだに起きたできごととして、みずからの人生を語り始める。物語の主人公はまちがいなく自分自身なのに、それは自分から永遠に失われた「あの少年」の物語であり「彼」の物語だ。

「ディケンズがアリゾナに生まれていたらこんな小説を書いていただろう」「ジョン・アーヴィングの感覚の鋭さと創意」などと評されたこの『エドガー・ミント、タイプを打つ。』原題“The Miracle Life of Edger Mint”は、新鋭の作家ブレイディ・ユドールの長編第一作である。

冒頭は衝撃的な事故のシーンにはじまる。誰もが死んだと思い込んだアパッチと白人のハーフの少年が、奇跡的に命をとりとめ、やがてながい昏睡状態から目覚める。病院から全寮制のインディアン学校へ、そしてモルモン教徒の家庭へと、少年エドガーの人生は転がって行く。頭の怪我のせいでタイプでしか文字を書けなくなった主人公は、どういうわけか戻ってきてしまったこの世界をたしかめるように、あやうい自分の存在をたしかめるように、ひたすらタイプを打って人生を書き留めるのだ。─(訳者あとがきより)


これは、読みながら「いいぞ、エドガー・ミント!」と声援を送りたくなるような本。7歳で死にかけて、その後辛いことがたくさん降りかかってくるにも関わらず、まだほんの幼い子どもであるにも関わらず、飄々と生きていくエドガー。その姿は、どこかけなげで、またユーモラスでもあり、読んでいる者に、なにかしみじみとした感じを与える。

白人とのハーフであるがために、インディアン学校では残虐なイジメを受けるのだが、それさえも日常の当たり前のことのような感じで、淡々とかいくぐってくる。普通の家庭で普通に育った子には考えられないような災難が、次々に襲ってくるのに、エドガーが悪人にならなかったのは、奇跡に近い。

実はエドガーは、殺人も犯しているのだ。けれども、それは周囲の人間を守るために、どうしても必要なことだった。エドガーの父親は、生まれる前に姿を消し、母親は飲んだくれで子どもの面倒など見れない人間だった。事故で昏睡状態になっていても、誰一人見舞いになど来ない孤独な子どもだった。

そんなエドガーには、どこか特別なところがあって、エドガーに関わった人たちは皆、彼に愛情を注ごうとするのだが、たいていは不幸な結果に終わってしまう。エドガーが殺した元医師も、なんとかエドガーを守ってやろうと奔走していたのだが、それが裏目にでてしまった形になる。親を失い、友達を失い、自分に関わる人たちがどんどん消えていくのを、まさに自分のせいだと苦悩するエドガーだが、彼の選択は、いつも正しいように思う。

事故で頭を轢かれたからといって、エドガーが馬鹿だったわけではない。むしろ頭のいい子で、ただ事故の後遺症で文字が書けなくなり、時折意識を失う発作に見舞われるといった具合。

病院で知り合ったアートという男に、タイプライターをもらって以来、エドガーは思いつくままに文字を打ってきた。それが彼のすべてだ。時には手紙であり、時には祈りであり、時には意味のない文字の羅列であったりする。口にこそ出さないが、積み上げられたタイプ用紙を見れば、いつが辛い時期だったのか、いつが幸福なときだったのかが一目瞭然なのだ。

物語の最後にはどんでん返しがあるのだが、自分はインディアンと白人のハーフで、孤児で、人生なんてこんなものだと半ば諦めながら生きてきたエドガーが、初めて心の底から悲しみを吐き出す。自分の轢いた郵便配達人に、生きていることを知らせて気持ちを楽にしてやりたいと、ただそれだけを目的にしてきたエドガーが、彼の死を知ったときに、初めて感情を露にするのだ。

その郵便配達人は、エドガーの里親になろうとしていた人物であり、惜しみない愛情を注いでくれていた人間だったことがわかり、その人さえも、自分のせいで殺してしまったようなものだと思ったからだ。

だが、おそまきながら、彼の妻と親子として暮らしていくうち、エドガーは心の平穏を得るようになる。幼い頃から打ってきたタイプが役に立ち、新聞記者にもなれた。自分の人生を振り返ったとき、エドガーはこう思う。

「僕にとってなによりすばらしいこと、それはこの13年間(郵便配達人の妻を母として一緒に暮らした年月)にとりたてて言うほどのことがないということだ」

たしかのエドガーの人生は非凡であった。であったからこそ、平凡で静かな生活がいかに幸福か、しみじみと伝わる言葉である。

本書は、悲惨なイジメにあう描写なども多いのだが、全体的にそこはかとないユーモアが漂い、けして陰惨な話ではない。むしろエドガーが苦労しているときには、かえって笑いが生じてくるくらいで、反対に彼が平穏無事に暮らすようになると、何か胸を打つ熱いものが感じる。

2004年09月27日(月)
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