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■ ぼくはお城の王様だ/スーザン・ヒル
出版社/著者からの内容紹介 少年の邪悪な魂、それをもあなたは愛してしまう。 〈サマセット・モーム賞受賞作〉
11歳の子の罪深い心理を描写した衝撃作! 11歳のエドモントのお屋敷に母と一緒に居候することになってから、同じ年のチャールズの地獄が始まった。エドモントのチャールズへの執拗ないじめの始まりだ!
この本には希望がない、と退ける人もおりましょう。 が、希望とは、いつもいつも語ってもらうものでしょうか。 読者みずから、思索しつつ、語るものではないのか。 語る力を要求される、その意味で、これはきびしい作品です。 読者を選ぶ作品です。――(訳者あとがきより)
内容(「MARC」データベースより) 心根やさしい11歳の少年を追いつめてゆく魔物たち。人を殺すか、自分を殺すか。それしか道はないかのような、この絶望。少年の内なる世界、現実、そしてファンタジーを克明に語り、イギリスで長く読まれてきた作品の新訳。
●著者のことば
この物語の暗い面はいったいどこから生まれたか。少年二人のいだく敵意、餌食にされたキングショーの血を吐くような悲嘆と苦悶、フーパーの邪悪な心─わたしは「邪悪」とみなすので─はいったいどこから生まれたか。自分でもよくわからない。エリザベス・ボウエンは、ひそひそ話の中傷で子供たちがいかに仲間を傷つけるか、その現実を語っている。グレアム・グリーンは、最初の12年間を、子供時代をどう過ごしたかで作家人生は決まってくる、と述べている。その間に、いずれ書くことになる大事なことをすべて体験するのだと。
(中略)
『ぼくはお城の王様だ』は、おもに子供の話である。けれどもこれは、大人のわたしが大人のために書いた本だ。そういう作家はおおぜいいて、それらすばらしい作品群からわたしは多くを学んできた。ディケンズ、キャサリン・マンスフィールド、エリザベス・ボウエン・・・。子供の話だから、読むのも子供、子供がいちばんよくわかる、と決めつけるのはよろしくない、とわたしはつねづね思っている。時を経てこそ、むかしの自分が曇りなく見えてきたりもするものだ。
が、そうは言っても、この本が大人よりは若い人たち、ことに十代はじめの少年たちに多く読まれ、共感を呼んだことも、また事実である。世の親たちは、二人の少年の関係やこの作品の結末を、絵空事だ、納得できぬと非難した。親より息子たちのほうが、人の心を、世間を知っているようだ。
(中略)
これは邪の力と残忍性の物語だ。おさなごにすら、それはある。さいなむ者とさいなまれる者の物語と言ってもいい。だが、なによりここに書かれているのは、孤立と、そして愛の欠如だ。登場人物のだれひとりとして、愛することも愛されることもなく、心の闇を癒してくれる愛の力を知らずにいる。フーパーはその典型で、それゆえに、キングショーは苦しめられる。愛を知らぬ大人たちは、利己的で、鈍感、盲目、愚かである。ひとりフィールディング少年だけが、広く温かな、純な心を備えている。しあわせな子供たちが等しくそうであるように、きわめて自然に、愛情を注がれそして注ぎ返す。キングショーもフーパーも、それを感じ取っていた。が、フィールディングにも、二人を救う力はない。
(中略)
よく思うのだが、なぜ、なんのために、小説を書くかといえば、結局はこれに尽きる─あなたはひとりぼっちじゃないんですよ、と伝えるため。
著者の言葉を長々と引用したが、彼女が書きたかったことは、まさにこういうことであり、私が改めて書き直すより、このまま引用したほうが正確に伝わると思ったからだ。
この物語は、非常に衝撃的だった。著者も言っているように、とても暗い話だ。明るい部分はほんの微々たるほどしかなく、最後まで救われない。あっ!と思う結末には(そこがサマセット・モーム賞を受賞した所以だろうとも思うが)、ショックでしばらく呆然とした。本を閉じたあと、しばらくしてからじわじわと胸に迫ってきた。その理不尽さに泣いた。
これを、単なるいじめの問題として捉えるつもりはない。少年たちだけの問題ではないからだ。子供はそもそも残酷なものだから、こういういじめがあることも理解できないわけではない。
けれども、私が大きな声で叫びたいのは、周囲の大人たちの反応だ。著者も言うように、「大人たちは、利己的で、鈍感、盲目、愚かである」。キングショーの声を聞こうともしない。聞いているつもりになっているが、自分のことしか考えていない。「大人は誰もわかってくれない」とは、まさにこういうことなんだろう。
これはなにも子供に対することだけではない。大人同士にだってある。相手が本当に望んでいることを無視するということは(故意でないにしても)、相手に死ぬほどの絶望を与える。だからキングショーの絶望が、痛いほどわかる。そして、この物語の場合、キングショーは本当に死ぬほど絶望してしまったのだ。
子供でも、大人でも、世の中の理不尽なことにぶつかることはあるだろう。私自身も何度となく経験した。そういうときの、信じられないという思い、そうじゃない!と叫びたいのだが、叫んだところで聞き入れてもらえないもどかしさ、自分を信じてもらえない悔しさ、理不尽なことを平気でする人間に対する失望、そういう思いが、キングショーの思いと相まって、全身が震えてくるようだった。
しかし、話はこれだけではない。キングショーは普通の子だ。フーパーを憎んではいるが、彼が怪我をしたり、事故にあったりすれば、心配もするし、自分のせいではないかと、自らを責めたりもする。だがフーパーは・・・。最後のフーパーの感情には、慄然とした。ここまで邪悪になれるのか!と。
この本は暗くてどうにもやりきれない気持ちになるが、それでも一読の価値のある素晴らしい作品だと思う。基本的にハッピーエンドの話のほうが好きだが、ここまで徹底的に人間の邪悪さを書きつくしたものは見たことがないし、その衝撃は、なかなか伝えきることができない。嫌な気持ちになることは間違いないので、お薦めはしないが、私はこの本は好きである。ともすれば忘れがちになる人への思いやりや愛情を、再び蘇らせてくれるからだ。
2004年04月08日(木)
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