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■ 第三の嘘/アゴタ・クリストフ
奇跡の三部作、完結篇 ついに兄弟は再会する。ベルリンの壁の崩壊後、40年ぶりにふたりが再会したとき、明かされた真実と嘘とは?――カバーより
<三部作の解説>
『悪童日記』は、ひとつの国(ハンガリーと思しい)の第二次世界大戦からその直後にかけての時期の情勢を背景とし、戦火の下という設定で、子供ないし子供時代をテーマとした作品だった。語りの形式は一人称複数の「ぼくら」を用いるものだった。
それに対して『ふたりの証拠』は、ひとつの都市(鉄条網によって隔離されてしまった国境地帯の都市)を舞台とし、共産主義の隣国に牛耳られる戦後全体主義体制の重圧下という設定で、主として青年期を扱った作品だった。そこでは第三人称の叙述がおこなわれていた。
こうした比較対照の観点から『第三の嘘』を見るなら、この小説は、欧州の東西を隔てていたベルリンの壁の崩壊後に時代を設定し、ひとつの家族を枠組みとして、人生の秋ともいうべき初老の時期に焦点を当てた作品だといってよいだろう。とりわけ注目すべきは、ここで語りが一人称単数の「私」によるものに移行していること、しかも異なる二人の主人公が作品の前半と後半に分かれて、いずれも「私」の名において語る語り手となっていることにちがいない。『悪童日記』で一心同体だった「ぼくら」はここで、一方(母国に残った者)が他方(外国へ亡命した者)を拒絶するという関係の二人の「私」に画然と分かれてしまったのである。
(本書解説/掘茂樹・訳者)
『悪童日記』(感想)、『ふたりの証拠』(感想)に続く悪童三部作の完結篇だが、私が前2作を読んだのは、『悪童日記』が2001年6月。『ふたりの証拠』が2002年1月である。『悪童日記』は鮮烈なイメージが残っているものの、『ふたりの証拠』はスコーンと抜けてしまっている。しかし、前2作を知らずとも、この作品は衝撃的だ。
いっさいの感情を破棄した淡々とした文章。嘘を平気でつきまくる少年に、ぞっとしたものを覚えるが、感情が入っていないことによって、それがさらに浮き立つ。前作からの繋がりを考えると、えーっ、こういうことだったのか!という驚きに打たれるが、双子の兄弟クラウスとリュカのどちらもが、「わたし」という一人称で語るため、途中は混乱した。
しかし、次第に真実が明かされるにしたがって、前作の嘘も明らかになってくる。戦時中の話なので、戦争の色は強く、戦争によってもたらされた悲劇と思いきや、彼等の悲劇の始まりは、戦争によるものではないことがわかってくる。それぞれに愛を失った者たちの、悲しい生きざまなのである。
しかしタイトルどおり、最期の話もまた、嘘なのかもしれない。。。 そう考えると、『悪童日記』の感想を読みながら、やられた!と思う私である。
2003年02月27日(木)
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