取り敢えず、まだあと少し |
昨年まで、毎年思い出しては憂鬱になったりもしたヤツの誕生日を、今年はすっかり忘れていたことに気付いた。 思い出したからといって、特になにかしていたわけじゃなし。 共に祝えないことを悲しむでなく、「忘れられないのネ」とメランコリックに浸るわけでもなく、単に「忘れていない自分」に驚きウンザリしていただけなのだけれど。 今年は「忘れた自分」にショックを受ける羽目になるなんてナ。 年月ってやつは濁流のようにおいらを押し流し、しかし元いた場所から確実に遠ざける。 年々その流れが、速まるような気がする。 一体いつになったら、海へと続く穏やかな下流に至るのやら。
まあ、それはともかくヤツだ。 左手に深く挟み込んだ煙草に火をつけて深く吸い込み、煙に目を細める。 そんな何気ない仕草も、惚れた男ならなお愛しかった。 煙草が嫌いなわけではない。 そういえば駅のホームから灰皿が消えた。 同時に線路やホーム、道路には吸殻が増えた。 吸う場所がなければ外で吸うのはいいとして、捨てるところがなければ道に捨てるというのはどうなのだ。 煙草が嫌いなわけではないが、喫煙者のマナーの悪さは耐えがたい。
話がそれた。 ヤツだ。 最後に話したのはいつだったか。 『サイン』だったか。『ゴスフォード・パーク』だったか。 『ボウリング・フォー・コロンバイン』の話はしたか。 そういえばマイケル・ムーア監督の『華氏911』がパルムドール受賞だそうで。 まあ、「ドキュメンタリー」とはいえ、作者の主観なくして映画は有り得なく、そういう意味で純粋な「ドキュメンタリー」の映画など有り得ない。 「ドキュメンタリー映画」は、だから面白いと思うのよネ。 俄然観たくなってきた。
ああ、またそれた。 ヤツだ。 忘れられずにいたことに驚き、忘れたことに気付いたことに驚く。 イッタイ忘れたほうがいいのか、忘れないほうがいいのか。 忘れられるのか、忘れられないのか。 否、おいらは、忘れたいのだろうか…。 悩むところではある。 取り敢えず、長年おいらを悩ませた胸の疼痛が、いまはない。 うーん?うん、ない。 よし。
日常の奔流に流され続け、けれど見える景色に然したる変化もなく。 確実に、ヤツの誕生日を忘れるくらいには遠くに来た。 疼痛が癒えるほどには時が経った。 それでも忘れていたということに気付く。
ま、いいや。 優しく懐かしく思い出すには、取り敢えず、まだあと少し。
|
2004年05月23日(日)
|
|