寂しがり屋さん疑惑

 演劇の感想を書こうとするとき、虚しさに襲われる。
 お芝居は、映画とは決定的に違う。
 それを見る環境の差は多少あれ、映画は常に不変だ。作品のなかで、キャサリン・ヘップバーンもレスリー・チャンも、常に若く美しく、輝いている。
 けれどお芝居は、そうはいかない。
 一度として、同じ舞台は存在し得ない(無論毎回同じクオリティを持続することがプロだと云う意見に反論の余地はないけれど)。
 全く同じものを見る選択が可能であるというなら兎も角、大抵の場合はそうではない。お芝居は基本的に、その日、そのとき、その空間にいたひとにしか共有できないのです。

 だから何を書いても(また読んでも)、「ふーん、へー、あっそう」ってなもんだ。
 得たものは、感じたものは確かにあるのだけれど。
 それを書いた瞬間に、自己満足に陥る。
 読んだ人間と、それを共有できないことを知っているから。
 単に自分に文章力が欠如している、というだけの話なのだが…。虚しい…。


 誰とをも共有できないのなら、自分のなかだけで大事にとっておけばいいだけのこと。それは、そうしているけれど。
 なぜ書くのか。なぜ、他人に読んでもらうのか。
 アンガージュマンを気取るつもりは毛頭ない。
 しかしそれならば、誰とをも共有できない、自己満足の言葉の羅列など、公開するに値しない。
 けれど、書く。
 誰も書いてくれ、などと云わないのに。
 なんだんべ…。
 要するに、寂しいのかな…。

 ま、書きたいと思えるうちは、書いてみようと思うのですが。
2003年07月20日(日)

メイテイノテイ / チドリアシ

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