五里霧中に暗中模索

 最近、民族学校時代のクラスメイトと掲示板でコミュニケーションを取るようになった。
 以前にも書いたが、地方都市の民族学校は殆ど一学年一クラス編成。その上、親同士もそうだったというケースも多く、全員幼馴染のようなもの。
 みんな全く気が置けない連中だ。

 だからといって、全員がすべて同じ考えを持ち、同じ生き方をしているわけでは当然ない(ここらへんなンか誤解が多いんだよなー民族学校出身て云うと。マサカと思うが、卒業生が全員社会主義マンセー人間だと思ってる?)。

 ソーレンでバリバリ働いてらっさる人もいれば、テケトーに民族学校の教師になった人もいるし、青年同盟(笑)の忘年会すら顔出さねーワタシのような人もいるし、もっと云えば「君らとは会いたくない」って云ってくる人もいるわけね。

 ワタシなんぞは、ここらへんで人間ってすごいと思う。
 教育というのは勿論人間を構成する最も重要なファクターのひとつなのだろう。
 しかし、決定的で最終的なものでは決してない。
 似たような環境で育ち、同じ教室で同じ教育を受けていても、ワタシたちはこうも違う。

 人間って逞しい。
 きっとどこかで自分が生きやすい方向に修正しようとする機能が備わっているのだろう。
 そんでもって、人種や境遇、血縁関係に関係なく、人それぞれに生きやすい方向ってもんがあるのかも知れない。

 ワタシ自身は民族教育の在り方に疑問をもっているし、更に云えば在日コリアンの在り方そのものに疑問を持っている。
 在学当時もそれで苦労したが、卒業後は更に大変だった。
 それでもワタシは、ワタシの生きやすい方向を探そう。
 ワタシという人間の在り方を模索しよう。

 彼らは彼らの生きやすい方向を見つけようと模索している。
 知ってました?ソーレン系の民族学校で黒字のところなんて、殆どないんだよ。そんでお給料がまともに出るところも、ほんの一握りなんだよ。地方のイルクン(ソーレンの職員)も、その仕事だけで食べていける人なんて殆どいない(中央の幹部は知らんけどな)。
 ワタシは彼らがそんな中で探している道を、頭ごなしに否定できない。自分に理解できないからと、切って捨ててしまうことができない。悩んでいるのが親しい人だからかも知れないけど。


 勿論これは、その方向スナワチ選択肢が多くある日本で暮らすからこそのハナシだね。
 恵まれた環境で、うだうだとフヌケたことで悩んでいるのかも知れないな。
2002年11月22日(金)

メイテイノテイ / チドリアシ

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