petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2006年01月08日(日) 『ふれた手の温度 5』(華氏シリーズ…状況説明)

「…なるほど。タクシーの中で寝てしまった私は、半分眠った状態で部屋に帰った…と」

「うん。すごかったよ〜。あんま意識ないみたいなのに、セキュリティも解除して、部屋の鍵もちゃんと開けて入ってくんだもん。…靴は脱ぎっぱなしにしてたけどさ」

「…それで」

 自分のさらした醜態に、また頭痛がしそうな精良だった。…いや、本当に痛いかもしれない。
 じわりと這い登る寒さに、少し震えて、精良は手を温めていたカップの中身を口にした。

「それでー、精良さんスーツの上着だけ脱いで、そのままソファに寝ちゃったんだ。…あんまり寒そうなんで、俺のフリースのベストを掛けてみたんだけど、それっくらいじゃやっぱ寒そうだったから、毛布探してかけたんだ」

「……そういえば」

起きた時にも気がついたが、今も自分がはおっているのは、見慣れないファー付きのベストだ。そのベストが、精良の首回りと、肩と背中をほのほのと暖めている。温まることによって、昼間、あんなに痛んでいたそれはいくらか軽減されていた。

「――あ。貼るカイロ、そのベストの背中と肩に貼りっぱなしだった」
「道理で温かい筈だな」

本気で忘れてた、と言うヒカルに、精良は苦笑した。
ヒカルの様子には本当に屈託がなくて、精良はいくらか、気が軽くなる。
後輩とはいえ、手を煩わせてしまった…という気遣いとか。
自分の体調の悪い…弱っている姿を見せてしまった…という恥ずかしさや悔しさとか。
普段の自分ならば、そういった感情が先に立つ筈なのに。
何故か、今の精良は、ベストや、毛布や、ホットレモンや…そういう、与えられたものに素直にくるまれて、温まることを良しとしていた。

――しかし。
何故、彼はそのまま精良の部屋にいたのだろう。
そのまま、帰ることもできたのに。

精良はその疑問を口にすると、ヒカルはぱちぱち、と瞬きした。

「だって、せーらさんが寝ちゃったから」
「…それはさっきも聞いた」
「そんななのに俺が出ていったら、鍵が開けっぱなしになるじゃん」

…やっぱそれは無用心だろ?
当然のようにヒカルはそう言って、ことん、とマグカップをテーブルの上に置いた。
ヒカルは、知らなかったのだ。
精良の部屋が、オートロックで施錠される事を。
彼の気遣いは無用のものではあった。
けれど。

「そうか…済まなかったな」
「ううん」

…何故か、その気持ちは精良の心に響いた。
そしてその気持ちのままヒカルを見る。

(……………進藤………?)

そこにいたのは、いつもの、ヒマワリのように明るくて、怖いもの知らずのひょうひょうとした彼ではなかった。
胡座をかいた脚の上で両手を握り、どこか…痛みを含んだ、見たこともないような悲しい微笑みを見せるヒカルがいる。

「それにさ」

ふ、と、ヒカルは精良を見た。

「……寝てる間にひとりになるのって……さびしいよ」


その言葉は、独り言だったのかもしれない。

しかし静まり返った部屋の中、ほんのりと暖まった室内の中で。

彼の言葉だけが、どこかひんやりとしたまま、しみこむように消えてゆく。



精良の持つカップからは、細い湯気が、ゆらり、ゆらりと揺れていた。



 < 過去   INDEX  未来 >


平 知嗣 [HOMEPAGE]

My追加