2003年04月01日(火) |
『春時雨』(テニプリ・薫小ネタ) |
さあさあと澄んだ音を立てて、雨が降る。 菜種梅雨とも言うのだと、出掛ける息子に傘を渡しながら、海堂の母はふわりと微笑んだ。 ひと雨ごとに、温かくなる、花を促す、恵みの雨。 「でも、いくら温かい雨だと言っても、濡れちゃだめよ。季節の変り目だし、体もそれに合わせて変わってゆくから、風邪もひきやすいの」 その母の言葉には、海堂は頷くことができた。何故なら、気候の変化に体が対応しきれず、せっかくの休日なのに父は布団の中という具体例がいたから。
そうして、傘をさして出掛けたその先に、その仔犬は震えていた。 四肢の太い、ころころと太った、愛らしい仔犬。 真新しい赤い首輪をつけた仔犬は、主人のものらしい自転車の前カゴにおさまったまま、雨にうたれて、震えている。 「………………」 海堂は、近くに飼い主がいないのかと、辺りを見廻した。しかし、この静かに降る雨に気付いていないのか、何処からも飼い主らしき人が駆けてくる様子はない。 温かい春の雨。…しかし、仔犬の柔らかい毛はすっかり濡れてしまっている。まだ、水をはじくような毛が生えていないのだ。
海堂は、そっと前カゴに手を差し入れ、仔犬を驚かせないように撫でてやった。仔犬が、海堂の手の匂いをふんふんと嗅ぐのに夢中になっている間に、傘の柄をうまくハンドルの辺りの隙間に差し込んで、雨をさえぎってやる。 しかし海堂の手をペロペロと舐めはじめた仔犬はぐしょ濡れのままだ。 気休めかもしれないが、少しはましだろうとポケットに入れたまだったガーゼのハンカチでざっとだけ水分を拭う。 仔犬は体を拭いてくれるのを遊んでくれると勘違いしたのか、短いしっぽをぱたぱたと振りながら、海堂の手にじゃれつき、前足でひっかくような真似をしてみせたり、軽くかみついたりした。 「…こぉら」 ぼそりと呟いて、仔犬の頭を軽く押さえ、少し手荒に腹のあたりをガシガシと拭いてやった。 それから、少し考えてウエストポーチに入れてあったバンダナを取り出し、仔犬にかけてやる。 仔犬はバンダナをうるさがって逃れたが、これ以上冷えない方が良いだろう、とバンダナをマントのようにかけ、首輪にはさんでしまう。 仔犬はしきりに首のあたりを気にしていたが、海堂が頭をなぜるので、そっちの方に気をとられてバンダナを取ろうとしなくなった。 「風邪、ひくなよ」
さかんに手を舐める仔犬に気を引かれながらも、海堂は一歩、後ずさった。 自分にも、約束したあるところがある。これ以上、ここで時間をとる訳にもいかない。
少年は、ふう、と一息つくと。 春時雨の中を、駆け出して行った。 その手に、少し仔犬臭いぐしょぬれのガーゼのハンカチを握り締めたまま。
「スンマセン、遅くなったっス」 「薫?!どうしたんだ?ずぶ濡れじゃないか。出掛ける頃には降っていただろう。傘はどうした?」 「……イヤ………ちょっと……」 玄関先で言いよどんでいると、肩にはバスタオル、頭にはタオルが降ってきた。 そして大きな手が、タオルごと顔を挟んで、上向ける。
「春の雨とはいえ、濡れたままはよくないからね。ちゃんと水分拭き取るんだよ?…今、フロ入れるようにするから、ちょっと待ってて」
触れるだけの。 雨よりもやさしいキスをもらって。
「はい、先輩」
海堂は、素直に微笑んだ。
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