2003年02月07日(金) |
『蝋梅2』(ヒカ碁小ネタ) |
旅館に着いたのは、予定していた時間よりもかなり早かった。 部屋に案内されて一息ついた後、緒方は腕時計をチラリと見やり、まだ針が約束の3時には余裕がある事を確認した。 (どうせアイツは遅れて来るだろうし……何か好きそうな菓子でも買ってやるか) 適当に自分に言い訳をしながら、愛車のキーをチャリチャリと手の中でもてあそぶ。
遅刻大王の異名をとるほど、進藤ヒカルの遅刻…もしくは時間ギリギリの滑り込みは棋界では有名になっている。今更多少の遅刻では怒る気にもなれない。ヒカルの遅刻の一番の被害者である搭矢アキラは、律義にもその都度怒鳴りつけているらしいが。 最近では携帯を持つようになったので、大幅に遅刻する場合はメールしてくるようになった。逆に、緒方がヒカルの現在位置を確認して、迎えに行く事もある。
…何となく、落ち着かない自分に自覚はあった。 十段の防衛戦を明日に控えていることもあるだろう。何か、ひとりでじっとしている事に耐えられない。 以前は、そんな自分に舌打ちし、それを押さえつけようとしていたものだったが、最近は素直にそれを認められるようになった。
『恐いっちゃ恐いんだけどさ……何ていうの?それと同じくらいゾクゾクして、ワクワクするんだ。これから、対局者とどんな碁が…宇宙が作り出せるんだろうかって。それが強い相手であればあるほど…恐いんだけど、楽しみで待ちきれない』
これは、本因坊戦の挑戦手合いの前日、ヒカルが緒方の腕の中で囁くように告白した言葉。誰にもナイショだと笑った彼の指は……冷たく、震えていた。 その指に口づけ、温めてやりながら、緒方の心にすとん、と入り込むものがあった。今まで、納得できなくて、飲み込めなかったものが、急にすんなりと入ってきたような、そんな感覚。
恐くても、良いのだと。
ヒカルは、対局前の震える己を緒方にさらけ出す事で、そう言っているようにも思えた。本人は、そんな自覚さらさらないだろうけれど。
だから、こんな時には、ヒカルの顔が見たい。仕事が終わった後、「十段戦が終わるまで一緒に京都にいろ」と無理矢理約束をとりつけたのは自分だ。十段戦の2日後、ヒカルは名古屋で名人戦の三次予選があるのを承知の上で。 「いいよ」 ヒカルは快諾してくれた。「もちろん、宿泊費は緒方さん持ちねvv」そう無邪気に笑って。
その笑顔が見たくて。自分に向けられるヒカルの笑顔が見たくて、ヒカルが好きな甘いもの――今回は京都だし、和菓子にするか――を買いに行こうとする自分に、ふと笑みがこぼれた。自分は甘いものなどめったに口にしないくせに。 「――いい加減、俺も終わってるよなぁ……」 その独り言は、緒方から鍵を預かり、送り出した仲居には聞こえなかった。聞こえないふりをしたのかもしれない。かつての文豪も好んで利用したという、著名人の名にも臆さないこの旅館の対応が、緒方は結構気に入っていた。
玄関の戸を開けると、冷たい風とともに、ふわりとした蝋梅の香りが緒方の頬をくすぐった。表門から玄関までの10メートルもの間には、様々な木々が植えられている。そのうちのひとつに、蝋梅が植えられていたはずだ。 色彩のとぼしい冬の庭に、それは香りという名の彩りを添えるかのようだった。
そして、ひときわ鮮やかな色彩が、そこにたたずんでいる。 黒と金の―――特徴ある髪は、すぐにそれが誰だあるかを緒方に知らせた。
見上げるような、蝋梅の木のもとに、ひとり。 ヒカルは、その蝋梅の香りのような微笑みを浮かべて、その蝋細工のような黄色い花を見つめていた。
その微笑みは、あまりにも綺麗で、やわらかくて―――淡い冬の陽射しに、溶けて消えてしまいそうに思えて。 緒方は、一瞬声をかけるのをためらってしまった。
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