父方の祖父は、生まれる前に没していたのでよくは知らない。 どうやら風変わりな人であったようだが、大酒のみであったことしかわからない。 父に訊く機会を逸してしまったので、多分、これからも写真から想像するしかないのだろう。
父方の祖母は、私が11の時亡くなった。 最後の光景が今でも思い出される。 祖母は、私たちを見送るために、縁側に出て立っていた。 車から小さくなっていく祖母に手を振った。目に焼き付いている。 それが最後である。
父方の二番目の伯父は早くに亡くなった。丁度私の今の歳だ。しかし、生憎私はこの伯父と入れ違いにこの世に生を受けたので、伯父のことは知らない。 一家の主として、4歳と生まれたばかりの娘を抱えていた。 叔母達に云わせると、この伯父が大変良くできた人で、妹たちには優しく、面倒見が良く、たいそう働き者であったそうである。 叔母達は今でもこの伯父が生きていたら、と嘆息する。
総領息子の最年長の伯父は70まで生きた。 私の父よりも後に亡くなっている。 この伯父にはあまり良い思い出がない。私は時代錯誤の心ない発言でよく泣かされた。 と同時に、何よりも好きなことをさせてくれた父の娘で良かったと思った。
母方の祖父との思い出は多い。 亡くなったのは、私が会社に入ってすぐの頃で、最期を見取ったのは私と祖父と同居していた叔母であった。 祖母が別れ際、たった一言「わたしを置いていくのか」といった言葉がいまでも胸を刺す。 晩年、すっかり呆けてしまって、私の顔を思い出してくれなくなった。 それでも良かった。 私は、覚えていたから。祖父とともに過ごした時間を。 あの夕焼けを、自転車の後ろに乗せられて帰っていくときに一緒に歌った童謡を、夕立の雷鳴を、納豆売りの独特な言い回しを、虫眼鏡で新聞を読んでいた背中を。 最後まで、痛いと、一言の愚痴も漏らさなかった明治の男だった。 泣きわめいても当然の容態であったにもかかわらず。
命が一つ消えてゆく度に、私はずたずたに引き裂かれる。 残される事が辛くてたまらない。それでも、生きていかなくてはならないことが。
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