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Majaの日記
Maja
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2005年05月08日(日)

 
 父方の祖父は、生まれる前に没していたのでよくは知らない。
どうやら風変わりな人であったようだが、大酒のみであったことしかわからない。
父に訊く機会を逸してしまったので、多分、これからも写真から想像するしかないのだろう。

 父方の祖母は、私が11の時亡くなった。
最後の光景が今でも思い出される。
祖母は、私たちを見送るために、縁側に出て立っていた。
車から小さくなっていく祖母に手を振った。目に焼き付いている。
 それが最後である。

 父方の二番目の伯父は早くに亡くなった。丁度私の今の歳だ。しかし、生憎私はこの伯父と入れ違いにこの世に生を受けたので、伯父のことは知らない。
一家の主として、4歳と生まれたばかりの娘を抱えていた。
叔母達に云わせると、この伯父が大変良くできた人で、妹たちには優しく、面倒見が良く、たいそう働き者であったそうである。
叔母達は今でもこの伯父が生きていたら、と嘆息する。

 総領息子の最年長の伯父は70まで生きた。
私の父よりも後に亡くなっている。
この伯父にはあまり良い思い出がない。私は時代錯誤の心ない発言でよく泣かされた。
と同時に、何よりも好きなことをさせてくれた父の娘で良かったと思った。

 母方の祖父との思い出は多い。
亡くなったのは、私が会社に入ってすぐの頃で、最期を見取ったのは私と祖父と同居していた叔母であった。
祖母が別れ際、たった一言「わたしを置いていくのか」といった言葉がいまでも胸を刺す。
晩年、すっかり呆けてしまって、私の顔を思い出してくれなくなった。
それでも良かった。
私は、覚えていたから。祖父とともに過ごした時間を。
あの夕焼けを、自転車の後ろに乗せられて帰っていくときに一緒に歌った童謡を、夕立の雷鳴を、納豆売りの独特な言い回しを、虫眼鏡で新聞を読んでいた背中を。
 最後まで、痛いと、一言の愚痴も漏らさなかった明治の男だった。
泣きわめいても当然の容態であったにもかかわらず。

 命が一つ消えてゆく度に、私はずたずたに引き裂かれる。
 残される事が辛くてたまらない。それでも、生きていかなくてはならないことが。