お酒解禁。 酔いにまかせて。
誰も一人の人間の一生の時間につきあうことはない。 自分以外は誰もね。 たとえば、もういない 死んでしまったひとの話をするとき、それは自分がその人間と過ごした時間のなかでのことを話している。
生きていた時間のなかの最後のとき、 そのひとは 誰かの父母であったかもしれないし、誰かの夫か妻であったかもしれないし、 誰かの子供であったかもしれない。 けれども、そのずっと前は誰かの子供であって、そして両親にとってはずっと子供だったわけで、 兄弟姉妹にとってはたとえ結婚して家をでていこうが自分が別な家庭をもとうが、 自分の兄姉であり弟妹だ。 幼馴染には、いつまでもあだ名で呼び合った友達で、 昔の恋人にとっては、若い頃の(そうでないかもしれないけれど)情熱が向かった先の存在だ。 15歳で死のうが80歳で死のうが、 ひとは誰かの子供であり、またもしかするときょうだいで、そして連れあいであるかもしれないし、 親であったりもする。 そして、多いかも少ないかもしれないが、仲間であったり、友人でもある。
ひとりのひとがどんなひとだったのか、自分の知っている範囲でしか語ることはできない。 だから、もしもそれを問われたなら 自分との関りをもって話してくれればいい。 わたしが知り合った時、こういうことをしていて。 どういう縁があってこんなつきあいがあったのさ。 わたしはそのひとをこう思っていた。 でも、それ以外のところは知らない。 もっと知りたいのなら、別な人間にもきいてみてほしい。と。
そうでないととてもかなしい。
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