いつも朗らかである、という評価をいただき、うれしく思いつつ考えましたこと。 朗らか ということばの響きが好きであります。西洋のいいまわしに、機嫌のよい子供のように○○、という形容がよくでてきますが、朗らかということばを聞くとピンクの頬をした赤ちゃんが思い浮かびます。この国のお姫様なんかまさにそうですね。 なんで、朗らかなのか、ときかれても、あんまりイヤなことがない、としか答えようがないのですが、結局外の世界に興味がない、なにより他人の話しをちゃんと聞いてないんでしょう、と酔ってからまれたりもしますので、案外そうなんだろうと思っています。
それから、頭ではこの世には辛いこと怖いこと苦しいことがいっぱいある、と分かっていても、どこか心の奥で、世界がそんな残酷なはずはない、楽しいこと嬉しいこと綺麗なことも同じくらいあるはずだ、と信じているのです。 でもその確信は、まさかこのわたしに世界が背を向けるはずがない、という誰もがもっている思いこみと同じモノではないかと、希望の裏返しは浅ましさではないのかとの疑いはあります。 なぜ、世界にはこんなに人がいるのによりによってわたし(の)なんだ! というのは覚えのある感情です。 そこから世界とその構成員を恨まなかったのは まわりに比べてどんなに早かろうとも死と別れは始めから誰もに約束された、いってみれば平等な世界からの答えだからだろうと思います。
子供の死も悲惨な死も、かわいそうである、なんてひどいのだ、とは感じても、真実なんて怖い、こんなものは見たくないと思うのは、苦痛の中に生きている人をみる時です。とくに子供です。自分で選ぶことなく、虐待や貧困や放置や辱めや不信や憎悪やらの苦痛の中にいる子供をみるのは辛いことです。 それが世界からの答えであるとしたら、なんのために、苦しむために生まれてきたのかと思うのは、自分はただ運よく恐ろしい罰から免れているだけなのではないか、いつかはわたしも自ら逃れられない苦痛の手に絡めとられてしまうのではないか、という怯えです。
でも、怯えて疑ってはいても、まだ信じてはいない。なぜなら信じたくないから。 お札のように笑顔をうかべ楽しいことを探し、信じないぞ!と自分にはっぱをかける。それがわたしの朗らかの源かもしれない、と言ったらイヤ〜な気持ちになりますか。 いつも裏返してばかりで疑い深くてすんません。 ほめていただいたのに、なぜかとんだことになってしまった。
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