痒痛 ☆ 日記 
お酒と音楽と変人と。菫色の日々。

2002年08月11日(日) この際だから言っておきます

わたしは 脳死はひとの死でない そして 臓器移植 は嫌だ 派 なので、もしわたしが、自力で指一本、瞼さえ動かすことができなくなっても、何人の医者が”脳死状態です”といっても、両親がこの子の体の一部でも、生きるのなら と言っても、わたしの一部を勝手に取り出したり、別のひとの体にくっつけたりしないでください。
当然のことですが、わたしもこの意見を変えない限り、それが必要な病になっても、移植待ちリストに名を連ねたりしません。
生れ落ちたときに授かったもので、自足して生きていること尊びます。その一部が病み衰え全体の生命力を奪い、結果 生き物としての最後を迎えようと、それはわたしという生き物全体が一度終わるためのプログラムだと受け入れたい。そして快復への道筋があるかもしれないとしたら、わたしの中に それを探したい。
これが、わたしの現在の 限りなく死に到るかもしれない病気 に対する意見です。

もちろん、この意見というものは、リストで待っている患者さんや 臓器バンクに登録している方々を批判するものではありません。
オマエも、臓器さえあれば生きられる、という立場に立ってみろ、また命を救うためならどんな方法も試してみるべきである、という意見があるのと同じように、わたしも脳死状態の愛する者と長く時を過ごした経験から、自分の信じる思いを述べているのです。

脳死状態である、という人間がどんな存在なのか、ということは、だいたいこの状態の人はほとんど全く動いたり反応を示したりしませんから、長い長い時間 病床で見守ったひとにしかわからないと思います。当然、医師は一日に一時間でも この状態のひとを見続けた経験など、特殊な研究者以外いないのではないでしょうか。そして、一日中、時には何週間も見つめ続けている家族や、毎日からだの世話をする看護婦さん達は、
「脳死は死ではない。このひとはなにも外に自分が生きていることを表していないわけでない。健康なひとがそういうことを表す部分がつかえないので、とてもとてもわかりにくいけれど、ゆっくりと長い時間をかけて やがてホントウに全体の機能が止まるまでは、外のことも感じているし、そのことを知らせようとしている。」と実体験から発言したりするのですが、愛ゆえの偏った意見ととられがちであり、そしてその実感の記録がとれないがゆえに、医学という科学の参考意見として用いられないのです。

まず、この脳死と言われる状態のひとをこんなにも数多くつくりだした、生命維持 についての意見を言わず、いきなり脳死と臓器移植についての是非を問うのも早計かもしれません。

この世界は流動的なおおきな器のなかに、細胞や器官が動き生きていて摩滅した器官を捨て互いにいつでも交換可能な、個々の意思と全体の意思が 生きる ということで齟齬なく結びついている、といった、よくSFや宗教の生命の最終形態として描かれていますから、これもある理想の形なのかもしれませんが、我と他の区別の意味のない世界を目指そう というのはわたしは目指したくないけど、この立場にたてばとてもよく脳死や臓器移植といった事柄を進めていく理由としてわかります。わかり易すぎるか。
でも、結構丈夫な皮のなかに 生きるために必要な器官をめいめいみな見えないけれど持っていて、めいめいバラバラな己が生きるという意思をもつ形態の世界を是とする立場になると、そんなことは自然でない拒否する、という意見があってあたりまえでしょう。

脳死 という状態をひたすらどういう状態なのか研究しているひとには、ますます研究して欲しい。けれど、いま人口に上るのは、ほとんどなるべく新鮮な臓器提供、終われない生命維持、を当事者でなく 当然か、周囲が 最近の可能性として注目した 脳死でしょう。これから益々身近にそういう状態のひとをじっくりと見ざるを得ない人が増えるからさ、その実体験をもってして立場をおのおの表明してもいいと思う。我ながら呑気な気の長いスタンスだとは思うけど、一刻を争うという現場の背景にはそういう長い長い蓄積された体験がなければ、当事者のほかには ただの主義の違いでの論争でしかないように思うのです。

何をもって生きている という状態とするのか、いきなり、人間の、という大きくてつかめないテーゼには わたしは手がでません。いつでもそうですが、わたしの、わたしが見聞きしたところの、ゆえにわたしは、の地点からものを言っているつもりです。
そして、他人の経験、実感はなぞれない、いまのバーチャルはあいまいな、アンケート上位のようなものである、と感じている現在のわたしには、自分の意見は曲げないけれども、違う意見を覆す必要がわかりません。

法律やまして倫理というものに、大勢の統一した見解が必要ならば、それには待つことが必要なんじゃないでしょうか。わたしも今後見聞きしたことによって意見は変わっていくかもしれません。ずっと変わらない価値観をもつ社会なんてこれまでどこにあったでしょう。

命にための科学である、ではなく いっそ、命のための科学の実験である、といえば、正直でもあるし、賛同するひと しないひと 信じるところをなせばよいだけです。
実験も発展も進歩も否定はしません。すごいなあ、と思います。一生をそういうことに捧げた人々はほんとうにそういう人生が好きで楽しかったんだろうな、と思います。
自力で呼吸したり心臓を動かしたりできなくなったひとを生き長らえさせたり、脳死という概念を発見したり、臓器移植という考えや方法を研究してきた人達のことも同じです。
真剣なんだ、楽しいとか言うな、と言われてもわたしはそう思っています。

意見を言うということには、他人を傷つける可能性がある。特に日本人はそう考えるひとが多いように思います。いろんな立場にいる人がいるから、慮って意見は声に出さないでおくがよい、と。
たまたま、こんな日記を読んでしまった、自分や愛するひとが、移植を待っているという人が 理解されないと感じ 苦しむかもしれません。

そして、 たとえば自力呼吸ができにくい という時点で呼吸器をつけられ、やがてある時点で 瞳孔の反射がないとか、動いても脊髄反射である、つまり脳はもう死んでいます、と言われ、生前臓器提供についての意見は言っておられましたか?などと聴かれたりして、このひとの心臓がまだ動いてるということは、この病床にいる人間にしか意味がないんだろうか?脊髄は生きていて手足が動くということは、活け魚の鯵をさばいて、骨と頭になった奴を水槽に入れると泳ぐ あの気持ち悪い状況のようなものなんだろうか、この変わらず丈夫な皮の中にある自足した器官は重要だといわれる命令系統が機能しなくなったらもう切り離してもいいものなんだろうか。
このひとは自分がもう死んだと認めるだろうか。
そういうわからない わからない こと に わたしも苦しみました。
最後には全部の機能が停止しました、ご臨終です、と言われた本人はもっと理解されないことに苦しんだでしょう。

生きる ために生きている。だからできるだけ生かす。でもやっぱり みんな一度死ぬ。
どんなことをしても一度は必ず。だからといってこの二つを同価値に考えるのは難しい。
けれど一度は考えてみてくれるといいな。たとえ意見が違ってもわたしはあなたを尊びます。
あなたの生を尊びます。わたしの死も尊んでください。誰がどんな方法で生きようと死のうと。

最後に それでも 愛 はひとを縛る。わたしも縛られている。自分の意見です、といっても それは愛から逃れた自由な思いから到った考えではない。


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