痒痛 ☆ 日記 
お酒と音楽と変人と。菫色の日々。

2000年12月23日(土) 12月27日いまさらながらの狂人日記

これを逃すともう書かないのがわかっているので、風邪ひきの腐った脳みそでおもいだす。狂人日記。ゴーゴリなんて文学史のなかの名前だけ、当然ちゃんと読んだことなんかない。ドストエフスキー(これも読みとおしたことない。)の言ったという「我々はみんなゴーゴリの外套からでてきた」 外套てのは比喩じゃなくて一番有名な彼の小説なんだけど、フーン。でした。

狂人日記はまあアイデンティティとペルソナの話なのかなあ?ただこれは喜劇なので笑ってもらわないと話になんない。それも役者を笑うんじゃなくて、台詞、筋書き、飛躍、ゴーゴリが意識的に創った仕掛けを笑ってもらわんと失敗だと思っていたのですじゃ。
まあ、前半はなんとか。後半は飯田巨匠の力というか肉体に笑っていただいてなんとか形になったのでしょうか?1回だからね。数日やったら巨匠の身体ももたんし、なにかか崩れちゃったと思うけど。

さて役者のエネルギーや肉体を観にきているのであり、小賢しい筋や芝居はどうでもいいとおっしゃる方々よ。沢山いるんだよね。
わたしも最終的に舞台に立ちあがってくるのはそれだと思うし、ひき付けられるものが目の前に立っていればつじつまがあってなかろうが、棒立ちだろうがちゃんとエンディングにもっていけるとおもいます。
けど、ならばあんなに稽古したり、台詞を覚えるのに脳みそかきむしったり衣装を揃えたりするするのはなぜ?圧倒的なエネルギーがあっても街角で叫ぶヒトを面白いと思えないのは?いや面白いと思うヒトはどうせ友人になれないから置いておく。お芝居がお芝居だとわかっていてお金をだして観るのは?
お芝居は遊びだと思うのです。ものすごく高度で、頭もお金もつかう。時間を一番つかう。たとえ知り合いがでていたとしても今はこのヒトはそのヒトではなくて、そんな自分を騙しているうちに瞬間騙されたりする。役者たちが放つパワーとかいうもんは、自己主張の「みてみて」かもしんないけど、約束ごととしてそこにいるのは日常の自分ではない。決められた言葉を話し、好みでもない服を着て、そうしてそこで主張するものは役柄の人物の主張であるというお約束がある。まあ、だからわりとみんな安心しちゃうんだけど。
なまのお芝居はそんなルールをみんな分かったうえでの遊戯で、お客さんも参加しているわけです。ただ舞台の上にいる方が親だからさ。親の采配がよくなきゃゲームは面白くなんない。だから稽古して腕を磨くんじゃあ。


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