Kin-SMA放言
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2005年03月23日(水) ぼく流

いや特に何流とかは・・・(^^ゞ☆\(−−;)タクの真似をするな!

オレ流、韓流、原始少年リュウ(☆\(−−;))と、最近は「〜流」にも色々ありますが、確かに“特に何流とか決めない”方がカッコいいとは思いますよ。

今日は書店に行っていつもの『ザ テレビジョン』を買おうと思ったんだけど、並べて置いてあった『TVガイド』を見た瞬間、恥を知らぬ(オイ)「二冊買い」をしてしまいました(^^ゞ


←いや、言わない



きんきっず的に充実していたのはいつもの『テレビジョン』の方だったが、まぁどっちも買って損はなかっただす( ̄w ̄)

でも正直言って、KinKiの『テレビジョン』(しかも週刊の方限定)の表紙は毎回見事に質感が“変”。なんでいっつもここまでブサイクに撮られるんやろ? 一種の奇跡ですわ(大愚痴)

中身(ハワイロケ)は普通にベッピンさんだったので安心しましたっつうか、表紙もこんぐらいちゃんと撮れよ!(←偉そう)

『ガイド』のツヨぽんの方はほっこり美しく、テキストも彼の穏やか感が全面に出てて、ドラマが楽しみになりました。





今日は『レ・ミゼラブル』夜の部(帝国劇場)ぼく的初日。

今年の『レミゼ』のぼく的(なんかやたら“ぼく流”だな)目玉は、やはりアンジョルラス初役の東山義久クン。

ぼく的初日はぜひとも彼のアンジョで、と思い、本日行ってまいりました(贅沢を言えば、マリウスは泉見君にしたかった。だが、当然のごとくそういう日はとっとと売り切れていた/涙)

今日の昼の部は記念すべき1900回目の公演だったのですが、これは当然行けず。

2000回も当然ムリ(T_T)

贅沢を言わず、普通の日に行くのだ。それでも充分なのだ『レミゼ』は。

で、ヨシくんのアンジョですが、登場シーンから早速ぼくの中のミーハー魂が暴れ出し、

「なんて美しいんでしょうv

とうっとり(v_v

本日夜の部のキャストに“マイベスト”は3人しかいなかったのですが(誰かはご想像にまかせます)、そのうちの一人であるヨシくんに、だいぶ助けられました(^^ゞ

ただし、おうたはもっとがんばろうね。そこはスポイルしないよ! ぼくは(←偉そう発言2)

キャストに関してはこれくらいにして、ちょっと変な話をします。

ぼくが『レミゼ』を初めて生で観始めたのは99年(確か歌詞の大改訂があった年)からなんだけども、観るたびごとに「一番共感する人」が移動してった。『レミゼ』ってそういう作品なんだよね元々。

小さい頃に親に連れてってもらったのが最初、とかいう女性であれば「リトルコゼット」→「コゼット」→「エポニーヌ」→「ファンティーヌ」→「テナルディエの妻」(オイ)って具合に推移するらしい。

男であれば「ガブローシュ」→「マリウス」→「アンジョルラス」→「ジャベールもしくはバルジャンもしくはテナルディエ(笑)」→そして「司祭」で悟りを開く(オイ2)てな具合。

間違っても「ラブリーレイディ」に共感することのなきよう(爆)

ぼくの場合は性別が変で、しょっぱなジャベールが“一番気持ちがわかる人”でした。その時のジャベールはなんとマヨマヨ(川崎麻世/笑)

マヨマヨだからってことじゃなく、ジャベールの杓子定規さがヒドく不器用で損する生き方だなーと同情したのだった。

その後、グランテール(え゛?)になり、テナルディエになり(う゛ーん・・・)マリウスになった、という明らかにおかしな推移で共感する対象が変わってきたぼくなのですが(やっぱ“オレ流”なんでしょうか(>_<;)?)、今日ついに、とんでもない感想を抱いてしまいました。

この『レ・ミゼラブル』という大傑作ミュージカル。原作は『あゝ無情』と訳されている超有名フランス文学ですが、原題は「惨めな人々」というタイトルです。社会の底辺で苦しみながらも誇りを持って生きようとしている、全ての人々の共感を呼ぶ人間たちの生き様を描いた大河ドラマです。

その芸術的価値にケチをつけるつもりは毛頭ございません。

ですが。

帝国劇場の1階席13,500円の席に座って、第二場「1823年モントルイユ・シュールメール」の場面で“惨めな人々”が「一日が終わりゃ寒くなる〜♪」と唄い出すのを聴いたとき、すごく妙な気分に襲われました。

“彼ら”に本当に共感できる立場の人たちって、一生、帝国劇場になんか来ることはないのじゃないかと。

確かにぼくだって金持ちじゃない。お金があってあって使い道に困ったことなんか一度もない。

給料日がくるたびに、「○○にいくらいくら、▽▽にいくらいくらだから、今月は××にいくら使える」という計算をしては、「はぁ〜っ」と溜息をつくような人種だ。

だけど、パンも買えないとか、髪の毛しか売るものがないとか、少なくともそんな生活ではない。

雨漏りもしない、すきま風も入らない家で寝ることができ、三度三度のゴハンも食べられ、芝居のチケットぐらいは買えるのだ。

ブランドものなんて一つも持ってないけど。

海外旅行なんて新婚旅行でしか行ってないけど。

クルマも持ってないけど。

「明日の朝まで生きてられるだろうか?」なんて危機的状況は、味わったことはない。

そんな“ぬるま湯な人々”だからこそ、こうやってノンキに芝居なんか観てられる(暴言容赦)

このお話の真実を本当に伝えたい相手には、結局伝わってないのじゃないか、と、すごく虚しくなってしまったのだ。

決して「生活必需品」ではないモノの代表である「エンターテインメント商品」。その商品の価値について、例えば大きな天災などがあった時にもよく引き合いに出される。

「生きるか死ぬかの時には、歌舞音曲どころじゃない」

よく言われる。その気持ちも分かる。ぼくだって、過去、家族が病気だった時は、テレビをつけるのさえ苦痛だった。

多分ぼくも、芝居とかジャニとか、知らないなら知らないで、生きてこられたと思う。

だけど、一切の「娯楽」なしに生きてこられたとは思えない。

人間が精神活動を行う生き物である限り、一見ムダに思えるような「エンタメ」も、絶対必要だと思う。



ここまで書いてふと思い当たった。

「貧乏人が清く力強く生きる話」だから本物の貧乏人が観なきゃいけないという先入観が間違っていたのかもしれない。

本物の貧乏人(失礼な書き方ですいません)には、そんなごちゃごちゃした話不要なのでは?(もちろん、原作の『あゝ無情』が当時本物の庶民たちに圧倒的な支持を受けたことは、ぼくは無視していませんよ)

彼らに必要なのは、過酷な労働の疲れを癒すストレートななごみ(お笑いとかスポーツとか流行歌とか浮世離れした恋愛ドラマとか。しかも金がかからないテレビなら尚良し)なのではないか。

生活には困ってないけど、人生には困ってるという“心が貧乏な人々”は、少々お金を使って、自尊心を満足させられるような小難しい芝居や映画を観ればいい。

そういうことなのかもしれない。

すいません、また自己完結してしまって。

でも、これが結論、気がすんだ、というわけでもない。

「自分はこう思うよ」という方は、ご意見をいただければ幸いです。





さぁ、長くなっちまったぜ。

『若者よ叫べ! ジェネジャン!! スペシャル』の話なんかとてもできそうにないぜ(←狡いヤツ)

なんで90分(って、通常版(120分)よりなんでスペシャルの方が短いの?)に3つもテーマを詰め込むかな?

この番組の“表面しか撫でてない”うっすい取り組み方には、光一さん激甘ファンでさえサジを投げてるのだから、いわんやぼくをや。




←100%テレビ的俗物表現


白状します。ちょうど家に帰った時にやってた「いじめ」の部分しか観てないのです。

それでさえ、パネラーみんな類型的な意見(体験談は別。飯島愛の「誤解を恐れぬ本音」も立派。発言の内容には賛成はできないが、「自分の言葉で言ってる」こと自体は素晴らしい)しか言わず、うんざりしました。

うかじん(宇梶剛士)なんか、俳優としてはぼくは嫌いじゃありませんが、この番組での彼の意見は常にいつも理想論で、実際問題には何の解決にもならず、がっかりします。

ペトロは単なる偽悪者を演じさせられてるだけです(『魔女の条件』のモデルとやらの元女教師(←非常にキモい論客ぶりでした/鳥肌)にツッこんだ時には、ぼくには珍しく大喝采したが/苦笑)

最後の、いじめで自殺した男の子の父親の「手紙」も、おそらく未だ日本中にいるいじめられっこたちの胸には、何も響かなかったでしょう。あんな手紙聴かされたら、「親“も”アテにならないんだ」と思い知らされるだけだもん(怒)

あそこで涙を流してるパネラーたちは、その場の雰囲気にのまれてるだけ。いわゆる「心霊番組」でトランス状態になってる人たちと同じなんですよ、ぼくに言わせりゃ(暴言2)

いや、あのお父さんは苦しんで苦しんで苦しみぬいて、ああいう心境に収まらなきゃ息ができないくらいの苦境に立たされて、そして自分の中でああいう結論を出すことで、やっと気持ちに区切りをつけたのだと思うから、彼に対してごちゃごちゃは言わない。

ぼくが言いたいのは、「いじめ」というのは各論(いじめる人間も、いじめられる人間も、全てケースが違う)で解決して行かなきゃいけないものなのに、どうしてテレビってやつは(そう、薄っぺらいのは『ジェネジャン!!』だけじゃないから)総論(つまり理想論)で結論づけようとするのだろうということ。

そういう意味で、ぼくとしたことが、最後の議長の「まとめのお言葉」に対して、いつになくあっけにとられたと告白しときます。

以下、キツ目の意見書きます。



光ちゃん、アナタは『人間・失格』というドラマに出たとき、確かにまだ15歳でしたよね。でも、15歳と言ったら、こういう問題に関しては充分に「当事者」として考えることができる年齢ですよね。それなのに、アナタの中にこのドラマは何も残さなかったのですか?

それとも単に、アナタの中でこのドラマは、エキセントリックな「ありえないストーリー」という記憶しかないのですか?(まぁ、「エキセントリック」なのは確かだが)

(やらしいことは言いたくないが)もしかして“テレビ局”的配慮で、このドラマの話題は出せなかったのですか?

それとも、「議長」だから、自分の意見は言えない、と(例によって)“抑えた”のですか?

はたまた、堂本光一的オチで、「忘れちゃっ」てたんでしょうか?

いずれにしても、今回ぐらいはもうちょっとアナタの本音を聞きたかった。アナタ本人は、決して人を「いじめ」たりした経験はないでしょう。でも、あの「留加」という役を通じて、疑似体験的に他人を陰湿に追いつめるという経験をしたアナタが、「総論」でなく「いじめ」をどう捉えているのか、ぼくは聞きたかったです。残念です。





すいません、楽しくない話で。

自業自得ですが、ちょっと精神的に沈んでしまったので、超満足だった『正直しんどい』の話は、明日。


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