Kin-SMA放言
もくじ|昨日のこと|明日のこと
朝イチで校正紙を受け取ってきて、返すのは週明けという話をとりつけ、すぐさま木挽町へ(遊ぶ時はほんまにパワフルでんな)
『十二月大歌舞伎』昼の部(歌舞伎座)
序幕は例によってステ。まぁ、フク(中村福助)の「嫗山姥」だしなー(これこれ/叱)
二番目の「身替座禅」から入場。
なかむら屋の右京は、ホンマに可愛いっ!v v v
しかも、(坂東)三津五郎の山の神も可愛いし、ハッシー(中村橋之助)も愛嬌があるし、千枝小枝の(市川)門之助と(中村)七之助も可愛い(^^)
かわいいづくしの幕(笑)
特に七之助は、やっと女方らしいとろりん(どういう表現じゃ?)としたところが出てきて、高校生の頃のエンピツみたいなかたーい感じが薄れてきて、いい感じに仕上がってきてる。
まぁ、お父さんみたいにふっくらすることは今後もないであろうけど、色気は出てきたな。良いことだ(*^^*)
「梅ごよみ」
今月の昼の呼び物です。
まじで今の歌舞伎界では(中村)勘九郎 vs (坂東)玉三郎以外の配役では考えられない。
この二人の周りをおもだか屋の若手連が固めて、やや新派っぽい色合いになったが、それもまた一興。
とにかく丹次郎を演った(市川)段治郎が、美女二人に奪い合いされる色男でなおかつ気骨もあるところを充分に演りとげていたのが上々吉。すんばらしい。
(市川)春猿。妖艶さは玉三郎に追いつき追い越せの感があるが、今回の役(お蝶)ではそれをきちんと抑えて清純娘を好演。
(市川)笑三郎。いつもながら実年齢にそぐわない貫禄で、儲け役の政次を大好演。この役、座組によっては仇吉(玉さん)よりも上置きの人が演る役だからね。たいしたもんだ。
でも、これほど脇が魅力的でも、米八(勘九郎)と仇吉の二人のシーンになると、二人しか目に入らない観客( ̄w ̄)
“美の競演”って、こういうことですな。
ぼくはいつも、米八が仇吉に向かって、
「おまはん、ちぃっとここ(顔)がキレイだといって・・・」
とブーたれるところでは、
「アンタもキレイよっ!」
と声をかけたい衝動に駆られるんだけど、うまくかけないと舞台がぶちこわしになるので、我慢するのに苦労してる(^^ゞ
こういうかけ声は、あんまり褒められたもんではないしね(昔の「声かけ名人」は、こういうかけ声を他の観客が不愉快に思わないように、絶妙のタイミングでかけたそうだが)
なんかさ、玉さんの女方はあまりに高嶺の花で、「銀座の一流クラブのママ」(きっと洟もひっかけてもらえない)って感じなんだけど、なかむら屋の場合、ママはママでも、「カウンターバーのオーナーママ」って感じで、情に厚そうな雰囲気があるのよね(思い込み)
「ママ、何かなーい?」
って座ると、
「おでんぐらいしかないわよ」
とか言いつつ、おにぎりを添えて出してくるみたいな(←妄想開始)
“いい女”という点では甲乙付けがたいわけです。
そんなお二人の女方を堪能したところで、先日見逃した夜の部「鈴ヶ森」になだれ込もうとしたら、一幕見がすんごく混んでて、あっさり断念(熱意少なっ)
気がつくと本日までという「笑の大学」を観に、日比谷シャンテ・シネへ。
やっぱギリギリになってもーた(−−;)ゴメン、ゴロちゃん
ストーリーは勿論熟知していたわけだけれども、向坂(役所広司)と椿(稲垣吾郎)の年齢が、よく知っている舞台版に比べて、大きく開きがあるところで、また新しい印象があった。
ゴロちゃんの椿一は、まるで無警戒な子犬のようにキラキラした瞳で(星監督が、ちゃんと“わざと”そう撮ってるのである)向坂の心にぐいぐいとその存在を食い込ませてゆく。
誤解を恐れずに言えば、まるで恋愛映画のように、向坂が椿に“惹かれてゆく”様を、この映画は瑞々しく描いている。
舞台版は、西村雅彦さんと近藤芳正さんという年齢の近い二人だったこともあって、“自分の仕事にプライドを持つ男同士の、信念のぶつかり合い”みたいな作風だったのだが、映画版は、椿をゴロちゃんにしたことで、そして向坂を役所さんにしたことで、不思議な叙情感に包まれた映画独自の色合いが出た。
“笑える度”は、セリフが膨大な分、舞台版の方が大きいんだけど、映画版は、視覚的要素を増やした分、ほのぼの度が増した感じがあった。
そうやって観た後にプログラムを読んで、三谷さんが椿を「椿一は『アマデウス』でいうモーツァルトなんです」と言っているのに思いっきり我が意を得た。
そうか、なるほど。
椿のモデルが菊谷栄であることが明らかにされたのは、この映画化に際してだったから、舞台版を観た時には、鈍いぼくはそれと知らなかった(鋭い人は、見抜いていたんだろうけど)
菊谷栄だと知って観ると、(先入観かもしれないが)やはり“椿一”という男は、ある種「神に愛された」が故に早世した人物なのだな、ということが分かる。それによってあのラストシーンが、ますます悲しさを増すとともに、一種の神々しささえもそこからは感じとることができる。
舞台版とは違う、映画版のあの長い余韻を持ったラストシーンは、椿が「神の子」であることを示唆していたのだ(椿が去ってゆく後ろ姿は、ピーター・セラーズの『チャンス』のラストシーンを彷彿とさせた)
正直に申して、映画化すると聞いたとき、「舞台より面白くなるわけがない」とぼくは思っていた。
実際、喜怒哀楽の感情を大きく揺さぶってくれるのは舞台版の方だ(ラスト、ぼくは舞台版の方が大いに泣ける)
だが、映画版は、その4つの感情の外にある「名状しがたい心の震え」を呼び起こしてくれた。
その喚起には、稲垣吾郎という俳優が持つ、独特の“子犬がくぅ〜ん”的可愛さが大きく関与していたことは言を待たない(なんでそんな、コムズカシイ言葉使うの?)
ジャニヲタの戯言と笑わば笑え。この映画の勝因の78%は、「稲垣吾郎のキラキラお目目」に尽きる。
役所広司の演技力(とてつもなく素晴らしい)も、星護の演出力も、三谷幸喜の原作・脚本も、本間勇輔の音楽も(あ、それから小野晃の照明がこれまた抜群に良かった)、それぞれ凄まじく良いのだが、それら全ての上に君臨して、この映画のレートを高めてるのがゴロちゃんの“子犬の目”と“2時間1分の中での成長ぶり”(わざわざストーリーの進行どおりに撮ったらしい星監督バンザイ!)だと思う。
実はその昔、菊谷栄をモデルにした戯作者が出てくる芝居を観たことがある。
扉座の座長にして人気劇作家・横内謙介氏がジャニーズがらみで最初に描いたと記憶している(あれ? 『ドラゴンクエスト』の方が先だっけか?)『洒落男たち(モダンボーイズ)』である。これには天才喜劇役者の役で、木村拓哉が出ていた。ぼくがRUPの芝居を観た初だったと思う。
あの作品は、正直あんまりぐっと来なかったのだが(白状すると、ぼくは横内さんのホンには4回に1回ぐらいしかぐっと来ない)、もし今観直したら、また違った感想を抱くかもしれない。
でも、映画と違って芝居は「見逃せばそれっきり」
だから劇場通いはやめられねぇんだよ(T_T)←最後はグチ?
|