Kin-SMA放言
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偶然というか必然というか、去年も8月6日は湿っぽい話を書きました。
今年も書きます。
でも、内容は違います。
ずっときちんとファンをやってた方からは、「今頃かよ」と言われると思うんですが、甲斐バンドのリード・ギタリスト、大森信和さんが先月の5日に亡くなったことを、つい3日前に知りました。
WOWOWで甲斐バンドの番組をやってたので、例によって録って、それをチェックするために最初と最後だけ観たのね。
そしたら、甲斐さんがこれからのスケジュールを告知した後に、大森さんの急逝を告げるテロップが。
心臓がまじで「ガクン」って鳴ったよ(T△T)
ずっとまじめにファンをやってきたわけではなくて、甲斐さんのソロのライブなんかは、正直あんまり興味もなくて、ひたすら甲斐バンド時代のCDを「ぼく内ブーム」が来た時だけ繰り返し聴いている。ぼくはそんな程度のファン。
でも甲斐バンドは、ぼくがみじんも恥ずかしがらずに「ファンです」と宣言できる、唯一のアーティスト。(−−;)何ですと?
そんな甲斐バンドが1986年に解散したのは、実は大森さんの耳の不調が原因だった。
ライブは何とかできるが、レコーディングやトラックダウンという研ぎすまされた聴覚を必要とする過酷な作業を、今後大森さんができなくなるという現実が、甲斐さんと他のメンバーを決断させたのだ。
それくらい甲斐バンドの「サウンドの要」だった大森さん。
2001年にはいくらか回復されたようで、4人揃った甲斐バンドが復活し、全国ツアーなどもされたのだけれど、ぼくはこの前後、何となく音楽やアイドル(100%ジャニ)から離れていた。歌舞伎やタカラヅカやミュージカル、小劇場関係に夢中だったのだ。
大森さんは最近では、後進のミュージシャンたちの指導などに力を注がれていたらしい。
甲斐さんは、ずっと唄い続けている。
本人も自慢しているとおり(自分で言っちゃうところって、甲斐さんだからなのか、博多っこの特徴なのか/笑)ドラマとかバラエティとかに色気を出さず、音楽一本でやってきてる。
松藤さんも、常にさりげなく甲斐さんの側におり(笑)、田中一郎は、いつもどこかでポジティブギターを響かせている。
いつでもぼくが「自己ブーム」を起こした時に、甲斐バンドはそこにいる。
そんな気持ちでいた。
・・・いつかはそういう日がくるんだよなぁ。
John Lennonが死んだ時に、深く思い知らされたことを、また身に沁みて思い知った。
それで思い出したが、じょんが死んだ日って、日本時間だと1980年12月9日の昼前ってことになるんだけど、まさにその日、甲斐バンドは武道館でコンサートをやっており、ぼくもその場所にいた。
その日はテレビも見ていなかったので全然知らなくて、アンコールの時に、甲斐さんが「逝ってしまったジョンレノンのために唄います」って言って「100万$ナイト」を唄い始めた時、一瞬何のことか分からず、全身に悪寒が走って、それでも信じられず、上の空でその後の2曲(だったと思う)を聴いて、速攻駅に向かったら、スポーツ紙にでかでかとじょんの死を知らせる見出しが躍っていた。
自分がドラマの主人公になったみたいな夜だった。
家帰ってからB4仲間を召集して、夜通し曲を聴きながら泣いた。
みんな翌日、顔がバンバンに腫れてた(酒飲んで泣いてたため)
24年後。
「甲斐バンドの大森さんが亡くなったんだって」
という悲しみを共有できるのは、今ぼくの知り合いの中には一人しか残ってない。
時の流れと、ぼくの人付き合いの悪さを自覚する(−−;)
翌日のことがあるので今日まで出来なかったが、今日は『REPERT & FADE』のOMORI PROJECTだけを繰り返し聴いて泣こう(「25時の追跡」は、甲斐さんの声フリークのぼくをもってしても、「大森バージョンの方が良い!」と思わせる名曲)
そして明日、『Peace & Freedom』を探して買ってこよう。
湿っぽい話ばっかじゃツラいので、ジャニオタとして誇りに誇れる話を最後に。
このニュース。 ↓ まっち、かっくい──っ(*^^*)
しかしまっち、この子を助ける時に、
「お兄ちゃんが助けてあげるから、大丈夫!」
と言ったらしいが。
不惑40歳で「お兄ちゃん」とは、ちと☆☆☆\(−−;)おだまんなさい!
ヒーローの星の下に生まれた人っているんだな、と思ったことであるよ( ̄w ̄)あっぱれ
というわけで、今日はKinKiもSMAPも一切登場しませんでした。
たまにはね。(自己都合)
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