こぎとえるごすむ
思う事・日常の出来事をウダウダと書きます。
「テメエふざけんな!」と思っても暖かい目で見て下さいね。

苦情は受け付けません。イヤだから。

2003年08月25日(月) 批判すること


**幼稚な批判には応じません、メンドウだから**

よく言われるコト。

「批判ばかりしないで意見を出しなさい」

あきれてモノも言えない。

「批判を批判しなさい」

これがワタシの持論。(揚げ足を取れってコトではナイですヨ)

議論は批判から始まる。
もちろん、批判ダケしても意味はない、ソレに対して反論(批判)があって初めて意味がある。

それすらしない卑怯者と一緒にしないで欲しい。
声を上げないことは、とても卑怯だ。

と、思う。


批判を批判することは意味がないと思える。

ネットや雑誌、何を見ても批判の応酬。
なんだか人間のイヤな部分を見ているようでイヤだ。

でも、

目を背けるだけでは、そこに成長はナイ。
何か感じるものがあれば、それは意味のあることだ。
それが当事者でも傍観者でも。

なのに批判を否定する風潮。

ソレはどうか?と思う。

それは単に日和見で無責任だ。

どんな形であれ、思っていることを形にすることは意味が有る。

批判されることもあるだろう。

それでいい。

そこから何かが生まれれば。



ただ、気を付けている事がヒトツある。

「過ちを認め、教えを請う度量を持つ」

”思うところ”があったら柔軟に変えていくこと。
その途中で間違いがあり、謝る所があれば謝る。
そして話を聞き、自分にそれを取り入れる。

過ちは過ちで認めたら許してよ。

それで良くない?

”人は過ちを繰り返して成長する”って何かで聞いたことがアルぞ。

でも、

そのキモチがナイ者どうしで批判しあうと、そりゃ不毛ですナ。



















ついでに。

あとヒトツ、自分に言い聞かせてることがある。

「人の話は半分に聞け」

話をした後に、やたらと納得してしまう人が多いのが気になる。
人の意見は、あくまでも人の意見なので、そのまま全部を
納得することは出来ないハズだ。(少なくともワタシは、そうです。)

しかし、

全て納得できなくても、”そうかもなぁ”と思うトコロがある。
ソコの部分を自分の中で消化して、自分自身の考えにしないと身につかない。

そのまま丸呑みはできないが、意味を自分で考えて
初めて、自分自身の考えに”昇華”する。

そう思う。


 < 昨日はこっちだ!  過去の「こぎと」一覧  明日はどっちだ! >


おすぎ [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加