repe
DiaryINDEX|past|will
八大龍王
八大竜王は元々は仏典に登場する神格で各地に祀られている。大本の流れで神道的に見た場合は、どうも霊的にヤマタノオロチの系統とされている節があるようだ。大本で初めに八大竜王を祀ったのは、兵庫県猪名川町の肝川支部で地元の農夫の妻、車小房(金龍姫)が神懸かって八大竜王を祀ったの最初だが、肝川という土地自体が元々源氏のふるさと多田神社の龍神信仰が盛んな土地だったという因縁が強いと思われる。大正三年肝川開きが王仁三郎によって為されたのである。肝川支部が出口直の三女福島久との関係を強めていったのが原因で、矢野祐太郎が入って昭和九年神政龍神会が結成されていくが、昭和十一年三月二十三日治安維持法適用で弾圧を受け崩壊し、矢野祐太郎が獄死したりした事もあり、戦後肝川支部は大本から独立して大国之宮として独自の展開をする。 昭和三十六年矢野新(シン)の努力で神霊聖典が復刊されて、岡田光玉も六甲の矢野新(シン)の住んでいた家に二度ほど訪ねてきたという。岡田光玉は肝川龍神にも顔を出していたという話である。
大本に於いても、肝川支部が戦前から大本本部の意向と違う流れに進んで行ったことの関係もあったか、昭和九年愛知県春日井の玉野川沿いの定光寺という土地に八大竜王を祀り直した経緯がある。大本関係では、八大竜王は二箇所祀られているのである。
大本教学上は霊界物語五十七巻から六十巻が伯耆大山の麓、皆生(かいせい)温泉に於いて口述されていて、八大竜王のタクシャカ竜王の改心の物語になっている。 タクシャカ竜王は海王星から飛来したこの世の悪霊の大元とされていて、オロチ、邪鬼、九尾の狐、三体の邪霊の大元の邪気とされている。王仁三郎はヤマタノオロチが退治されたのは伯耆大山だとしているので、因縁が深い部分である。
私の理解では、良く仏像の中で動物に乗っかった仏像が有るが、動物で表される力(未浄化の心)を、コントロールするすべを示していると考えている。心理学上のイドのような物だと考えている。 霊界物語に於いて、タクシャカ竜王が封印されていた山は、アズモス山とされていて伯耆大山の事とされているが、これは富士山でもある訳である。 素盞嗚尊や大国常立尊が祀られる山に最大の悪霊が封印されていた訳であるから、逆説的な真理といえるが、私は龍神という存在は人体のクンダリニーのようなものと理解している。(龍神は霊的実在として存在するが、これは一つの理解としての解説)
昭和二十二年正月に岡本天明が正味三十分ほどで書き上げてしまった「三貴神像」は天照大神、素盞嗚尊、月読尊、三貴神が八大龍王に乗っている図相である。
龍神神懸かり(ピンからキリまで有るが)の特徴は、大体に於いて酒飲みで色欲に溺れ易いという特徴がある。
> 八大竜王と救い主様のことについて「心は宇宙の鏡 成星出版」という本のP86に書いてありますが、この本によりますと八大竜王が救い主様につくことにより手かざしができるようになったようです。この本の内容が正しいかどうかは調べようもありませんが、八大竜王についてもう少し詳しく教えてください。
この手の話は、岡田茂吉に琵琶湖の黒龍(国祖、国常立尊の事)が憑いた。という話から採ったような気もするなあ。まあ、確かに岡田光玉も龍神系の神懸かりだったことはわかるけど、、、 だいたい、肝川神啓の中に高津玉大神なる神格がある。 世界経済担当といいフランスと榛名山が領域という。岡田光玉が金銀財宝をジャラジャラ身に付けていたのを思い出す。 典型的な動物霊の仕業ですな。
高津玉と光玉、言霊的な意味は同じです。(津は助詞、高はコとかカは、古語で太陽の事を指す。)(光玉には、琥珀の玉(ぎょく)という意味も有ったようだけど)
Top
--------------------------------------------------------------------------------
ラーム
今日、古い真光幹部だった人から聞きました。
ラームという人は、インドからアメリカに渡ったインド人のヨガ行者だそうです。「おみたま」になっていたスイスの高級腕時計は光玉がいつも見に付けていた物だったそうです。その人は、ラームのおみたま(ペンダント)は見た事ないそうです。
Top
--------------------------------------------------------------------------------
高山が日本の中心
これは戦前巨石文化を研究していた退役軍人の上原清二という人が飛騨高山付近の巨石を調査して、竹内文献の研究者、酒井将軍等を連れて来て盛んに調査していたのです。 戦前の話です。戦後、昭和二十六年頃から地元出身の霊能者の霊示が元になって大本教にいた池澤原次郎という人物が中心になって飛騨の位山を開こうという気運が強くなったのです。 それには、上原清二も参加していたんですね。昭和二十九年と三十年に位山を開く祭典が執り行われています。 この話は昭和二十九年の中外日報に書いてある。 真光が高山の事を言い出したのは昭和四十年頃からだから十年早い。真光如きにはオリジナル等何もないという事である。
ついでに岡田光玉が苦労して九州の幣立神宮を突き止めて参拝したという話があるが、これは如何もうそ臭い。 幣立神宮の宮司、青木蘇陽は昭和二十年代後半から中外日報の常連ライターであり、この青木という人物は自己の所管する幣立神宮の宣伝もよくしていたし、昭和三十年頃には幣立神宮の宣伝をした赤い色の小冊子を発行している。 幣立神宮の「五色人祀り」なんて霊媒に語らせた事が起源になった全く根拠のない絵空事であった。
宗教マニアの岡田光玉はそれを知らなかったとは考えにくいのである。
Top
--------------------------------------------------------------------------------
浮霊現象について
前に一度書いたと思うけど、真光の教義(方向性)事体に霊動《浮霊》と言います。《浮霊》、霊が浮かび上がる事を志向している教団であるという事実。真光は《浮霊》を、人工的(意図的)に引き起こそうとしている訳です。
この岡田光玉の《浮霊》への志向性が救世教を破門された理由で、人間の精神に対して非常に危険な方向性だったんですね。「祈言集」の《ゴクビジッソウゲンシカイ》なんて濁音だらけの祝詞は、普通の神道では在り得ない言霊として響きが汚いものです。態とこうゆうのを使用して人を《浮霊》させるのです。この事を私に教えてくれたのは真光の幹部だった人ですよ。
《浮霊》とか似た現象は気功やブリージングセラピーでも起こりますが、ブリージングは私もやった事あるが隣の人が蛇みたいにのたくっていた。 真光信者なら蛇の霊が憑いていると言いたげな感じですが、ただ副交感神経?だかの問題だそうです。(昔はこの手の情報に詳しかったがもう卒業しました。)暗示を受けやすい状態だから、前以て霊の憑依とか言い聞かせられると、その様な反応をするだけです。ただし霊的存在というものは確固として存在します。 霊的存在として動物霊という存在はありますよ。
霊動《浮霊》について補足しますと、本来は霊動《浮霊》=《悪》という訳ではありません。これらの現象は民間医学でいうが如くカタルシスの一種といえます。例えば野口整体の活元運動なんて、霊動《浮霊》に良く似ています。 これには、創始者の野口晴哉が救世教出身というから当たり前ともいえますが、活元運動で霊が憑いたなんていいませんよ。
霊動《浮霊》に付いては、人間が風邪を引くのは体の調整作用だと言われますが、霊動《浮霊》も交感神経の調整作用の一環と考えています。この手の現象が起きるような場合が想定される時は、シッカリ対処できる人間がいるかどうかという事にかかっていると思います。
>「霊動」は濁音の祝詞が起こす「暗示」と関係があるとおっしゃっているように受け取りますが、それでしたら暗示とは怖いものですね。人を一生縛り付ける。確かにゴクビ云々の語韻はゴクツブシといったののしり言葉などを連想させますが。濁音て、詩でもそうでしょう?
「祈言集」は今手元に無く、その《ゴクビジッソウゲンシカイ》は漢字では極微実相、後は覚えていません。 濁音だらけの祝詞なんて・・・国文学や神道学にある程度の関心が有る方ならば、普通納得される筈ですよね。 真言や呪には有るけど、何処の神さんが懸かっているのやら・・・
>この事を私に教えてくれたのは真光の幹部だった人ですよ。
この方は、真光隊の隊長だったかな務めていた人で光玉死後暫く後に脱退した方なので、《ゴクビジッソウゲンシカイ》の話を、今の幹部が知っているか?というのは私には判りません。
>「霊動」はその動作だけ観察したら、薬物中毒者によくみられる現象と同じです。
上記の内容より私はそうは思いません。 本来はセラピーの一環だったと考えます。
>野口整体って、こんにゃく運動の野口先生ですか?
その人です。野口整体と救世教の関係は余り知られていないようです。
>しかし >>人間の精神に対して非常に危険な方向性だたんですね。 >ということで、光玉、救世教破門の原因が霊動への執着、関心。
そもそも、岡田茂吉は大本に居た時は神霊実験の研究等をしていた。昭和二十年代、始め救世教主宰で物理霊媒、亀井三郎の実験会の主宰等も有りましたが、救世教の浄霊をしている場に於いて憑依現象が度々起こり、弊害が多いために昭和二十六年頃に教祖岡田茂吉によって救世教の場では神懸かりは禁止されたのです。(天国の礎に確か論文が有ったかな?)
当時、例外として神懸かりが認められていたのは、京都のイズノメ中教会の多賀夫人で、この夫人の取り次ぐ内容が機関紙の地上天国に掲載されていたのです。それに触発されて何人か神懸かりを続けていた人物が居り、岡田光玉も止まなかった一人で遂に破門されたというのが救世教で伝わる話ですね。
当時もう一人神懸かりを止めなかった人物がいて、兵庫県の豊岡に居た池内一次という人物は岡田茂吉から直々に審神を受けて本物と認められたそうです。(岡田茂吉没後、独立してひかり教会を設立した)当時、岡田茂吉は総ての神懸かりを否定していなかったという事実は重要です。
以前私が野口整体と野口体操の創始者は同一人物等良く確かめもせず頷いていましたが、後でよく調べてみたら別人でした。
野口整体 野口晴裁
野口体操 野口三千三 でありました。 いい加減な事いってスイマセン。
フト思ったんですが、此方の皆さんは「教祖誕生」上之郷利昭 新潮社刊という本のことはご存知ですか? 何処かの文庫本にも入っていたが、出版系列からして新潮文庫?この中に岡田光玉の伝記資料が収められています。光玉の家族(妾じゃないよ)とか、古い知人からも取材したようです。 以下引用すると、
しかし光玉はこの頃から既に、宗教の方には相当身を入れていたようである。「神道、仏教あらゆるところを模索して歩いた」と、彼は後年、親しい人たちに漏らしている。として、生長の家や救世教、大本に関わっていたらしいと記述あり。 大本の話は、私自身が大本の人から岡田光玉が大本の講座を受講に来ていたという証言を聞いた事がある。あまりソースとしてはこの本の事が話題に上らないので書いてみました。
Top
repe

|