2006年02月18日(土) |
誰も書かなかった高倉健 <単騎、千里を走る> |
世の中には批判してはいけない人、悪口を言うことがタブーとされる人がいる。長島茂雄巨人軍終身名誉監督とか高倉健などがその代表であろう。
高倉健と言えば「寡黙な人」「不器用ですから」というイメージがある。しかし今回映画「単騎、千里を走る」を観て分かったのは、言い換えるならば高倉健という役者は滑舌が悪く、台詞回しが下手で、要は大根役者だというのが真相だということだ。先日、内田吐夢監督の傑作「宮本武蔵」シリーズを観ていたのだが、1963年公開の「宮本武蔵 二刀流開眼」から高倉健が佐々木小次郎役で出演している。勿論このころから下手くそなのだが、それから40年以上経た今になっても全く演技力は向上していない、進歩の跡がなんら窺えないのはある意味凄いことだ。さすが大物である。
恐らく日本の映画界では「健さんに台詞を喋らせたら台無しだから、必要最小限に剃り落とそう」という暗黙の了解があるのだろう。そのようにして寡黙な人というイメージが形成された。高倉健がテレビドラマに全く出演しないのも、テレビというものは喋らなければ間が持たない媒体だからというのがその理由であろうし、その判断は賢明だったと言えるだろう。
しかし中国人で日本語を全く解さないチャン・イーモウ監督にそのような事情が理解出来よう筈もない。イーモウは沢山台詞の書かれたモノローグを用意して、高倉健は映画を台無しにした。
映画の物語自体、あざとく偽善的で詰まらない。イーモウ作品なら「至福のとき」に匹敵するくらいの出来の悪さである。登場する中国人は全員素人を起用しているということだが、その方法論は鞏俐(コン・リー)以外、ロケ地近隣の素人の村人を起用した「秋菊の物語 」や「あの子を探して」と同じである。しかし、前2作では村人の素朴さが滲み出て成功しているのに対して、今回その手法は全く空疎な空回りだったと断ずるしかないだろう。
また、この映画の日本国内の撮影は降旗康男監督や撮影監督として木村大作が起用されているのだが、画面の色調などが中国パートとうまくかみ合っておらず、寺島しのぶの重たい演技も最後まで違和感が付きまとった。評価はD-である。
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