2005年06月25日(土) |
スター・ウォーズの想い出 |
「スター・ウォーズ/エピソード4」が北米で公開されたのは1977年5月。全く期待されていなかったこのSF映画は、たった32館だけでの上映からの出発だった。それから瞬く間に大ヒットとなり、歴代の映画興行成績記録を塗り替えることになる。
日本で上映されたのはそれから1年以上後の1978年夏。日本の20世紀フォックス宣伝部は長期に渡る宣伝戦略を立てたわけだ。しかし結局、待たされすぎた日本の観客の反応は鈍く、期待されたほどのヒットには結びつかなかったのだが。
映画が日本で公開された年、僕は小学校六年生だった。待たされた1年間の間に、どうもアメリカから凄いSF映画がやってくるらしいと、子供たちの間でも話題になっていた。小学生だけで映画館に入る訳にはいかないので、うちの父親に頼んで引率してもらい、同級生10人くらいを引き連れて観に往った。今考えてみればあれが僕の映画原体験であり、「スター・ウォーズ」から映画に恋い焦がれ続ける我が人生が始まったと言っても過言ではない。
僕は映画を観るよりも先にジョン・ウイリアムズの音楽を聴いていた。小学生のくせに生意気にもクラシック音楽ばかり当時聴いていた少年は、クラシック界の有名な指揮者ズービン・メータが「スター・ウォーズ」の音楽に魅了され、作曲家に依頼し組曲にしてもらってレコーディングしたという記事を読んで興味を持った。そのメータ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の演奏するアルバムがFMで放送されたのをカセット・テープに録音(=当時は”エアーチェック”と言った)し、繰り返して聴いた。現代にもこんな凄いオーケストラ曲を書ける人がいるんだと驚嘆したものだ。
本当は作曲者自身がロンドン交響楽団を振った映画のサウンドトラック・レコード(CDが登場するのはまだ先の話である)が欲しかったのだが、サントラとしては珍しいLP 2枚組で、小学生の乏しいお小遣いでは高嶺の花だった。
当時TBSでは「オーケストラがやってきた」という音楽番組を放送していて故・山本直純さん(「男はつらいよ」の作曲家)が司会と指揮を担当されていた。その「オーケストラがやってきた」でも「スター・ウォーズ」の音楽が取り上げられて、山本さんが<王座の間とエンドタイトル>を指揮した後に、この冒頭部はメンデルスゾーンの「結婚行進曲」で、その後に登場する弦の旋律はエルガーの「威風堂々」の影響を受けていると分かり易く解説されていたのを今でもよく憶えている。
あれから27年間、未だにジョン・ウイリアムズこそ現役最高の作曲家であるということを一度も疑ったことはないし、ジョンが作曲した映画のサントラに関する限り、この世に存在する全てのCDを手元に保有していると確信を持って言い切ることが出来る。JWFC(ジョン・ウイリアムズ・ファン・クラブ)にも入ったし、ジョンがボストン・ポップス・オーケストラを引き連れて来日した際も岡山から大阪までコンサートに駆けつけた。結局そんな僕のささやかな歴史は、ひとえにあの小学校六年生の夏の日から始まったんだなぁと想うと感慨深い。
エピソード4から6までを観たのはテアトル岡山という、汚い場末の映画館だった。音響が貧弱で、ドルビー・サラウンドの映画を平気な顔をしてモノラル音声で上映するような所だった。さらに、音量が大きくなるとスピーカーの音が割れるのである。上映設備が整ったシネコンが主流になった現在から考えると隔世の感がある。その映画館も今では潰れて、駐車場になってしまった。多分テアトル岡山で最後に観た映画は「タイタニック」だと想う。
エピソード4がテレビで初めて放送された時も話題になったなぁ。日本語の吹き替えを担当したのが以下の通り。
ルーク = 渡辺徹、レイア = 大場久美子、ハン・ソロ = 松崎しげる
途轍もないキャスティングである。当然ファンの怒りも凄まじかった。この事件は今でも語り草となっている。呆れ果てた僕は勿論観なかったのだが、今考えてみるとその吹き替え版も怖いもの見たさでの興味はある。DVDの音声選択に入れてはもらえまいか。
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