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☆原題は、「カッコウの姉(THE CUCKOO SISTER)」
「神かくし」にでもあったように、忽然と人が消えてしまう。
ときおり、テレビの情報番組やワイドショーで、
行方不明になった子供や家族の特集がある。
皮肉なことに、ちょうど家族そろっての食事時であったり、
団らんの時間に「消えた家族」を探す番組を見ている。
事実の報道のように見えて、テレビ的に編集された番組は、
真実からはほど遠いのかもしれない。
想像も及ばない苦しみや過酷な現実は、ブラウン管のずっと向こうなのだ。
それでも、消えてしまった家族、とくに小さな子供を待つ
親兄弟の悲しみは、見ているこちらの心まで重くしめつける。
生死も分からないまま忽然と消えてしまった家族、
あるいは連れ去られた子供を待ち続ける日々。
テレビは、編集し切り取った断片を放映し、
情報を求めるけれど、ほとんど、その後どうなったのか
こちらの目にとまることはない。
結局、何も起こらなかったのかもしれないし、
あるいは、何かが分かったにしても、
待ち続けた家族たちのプライバシーを守るためかもしれないし、
ただ、私が気づかなかっただけなのかもしれない。
しかし。
家族たちの苦悩は、行方不明になっていた子供が
帰ってきたからといって、そこで手放しのHappy Endで
終わるわけではないのだろう。
そこからさらに乗り越えていかなければならない
新たな苦しみが始まる。
連れ去られた子供は帰ってきても、失われた時間、
家族として当然共有できた思い出は、奪われたままなのだ。
小さな子供が大人になるまでずっと連れ去られていた場合には、
特に。「テディベアの夜に」を読み終わって、そんなことを
しみじみと考えた。
5歳になったケイトは偶然、自分に行方不明の姉がいることを知る。
赤ん坊の頃、乳母車からさらわれてしまったままの。
その事実を知ってから、ケイトは消えてしまった姉エマを恋しがる一方で、
両親の愛情を疑い、家族から自分が疎まれていると思いこんでしまう。
そして、11歳になったケイトの前に、ロージーという少女が現れる。
ロージーは、ほんとうに消えてしまった姉エマなのだろうか?
それとも、ケイトを巣から追い落とそうとする
「カッコウ」の姉なのだろうか?
※「托卵」といって、カッコウは多種の鳥の巣に産卵し、
その鳥に自分の雛を育てさせる習性がある。
仮親の卵よりも先に孵化した雛は、仮親の本当の卵を巣から外に
追い落としてしまう。
探し続け、ずっと待ち続けた子供が、帰ってくる。
赤ちゃんだったのに、すっかり大きくなって。
夢にまで見た再会が、現実になる。
それは言葉にならないほどうれしいはずなのに、
大きな不安が常につきまとう。
「この子は本当にあの子なの?」
家族は共に生きていく中で、さまざまな絆を育んでいくのだろう。
だから、ケイトにはケイトの、エマにはエマの、
それぞれにお互い別の家族があったのだ。
血がつながっているからといって、
それだけで、急に、家族になれるわけではないのだ。
両親は混乱し、ケイトは、自分が阻害され、
自分の居場所がなくなっていくように感じる。
ロージーは、今までの家族を失い、
エマという本当の名前を前に、いったい自分が誰なのかわからなくなる。
真実はどこにあるのだろうか?
それは、エマが本物かどうかというだけでなく。
ケイトも、自分自身を問うことになるのだ。
「カッコウ」の姉への、自分自身の思いを。
ロージーが何者であるかを見極めようとすることで、
幼かったケイトも、自分自身を見つめ、
やっと自分が分かるようになるのだった。
「テディベアの夜に」は、エマが何者かを通して、
エマだけでなくケイト自身も
自らが何者なのか、ほんとうの自分自身というものに
気づく物語だといえる。
※同じテーマを描いた作品に「青く深く沈んで」
(ジャクリーン・ミチャード/新潮文庫・絶版)がある。
私は映画「ディープエンド・オブ・オーシャン」
(原題;The Deep End of the Ocean)を見たのだが、
やはり、行方不明の子供が帰ってきてからの家族の苦悩と
苦しみの中から再生していく家族の姿が描かれている。
是非、小説の方を読んでみたいと思っている。(シィアル)
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管理者:お天気猫や
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