思い起こせば15年前の3月8日、あの日は木曜日でした。
怠け者の母は妊婦の私に運動が大事だとか結構な理由を付けて掃除、洗濯、ご飯炊きすべてを私にさせて自分はゲートバールとパチンコ三昧でした。
夕飯の片づけを終え、大好きなとんねるずの「みなさんのおかげでしたす」を見ている時に産気づき陣痛の間隔が5分置きになったので、母はまだ早すぎると言ったのですが、とりあえず病院まで車で連れて行ってもらいました。内診の結果、産道がまだ開いていないからと追い返され、自宅に戻リました。戻るには戻ったのですが、あまりにも出血もひどく陣痛も間隔がなくなったので心配になり病院に電話を入れたら助産婦に「我慢が足りない!怖いんでしょう。みんなはもっと我慢するのに情けない!」と散々罵倒されました。
罵倒されても、産まれそうなものは仕方が無い。
再び片道30分の道のりを病院に舞い戻り、我慢が取りないことを責められながら、診察を受けたら準備室には行かず、即、分娩台に上げられました。
上がって20分で出産しました。
助産婦のの指示に従って、もっと痛みを堪えていたら、危うく自宅で出産するところでした。
今、思い返すと、あの助産婦、仮眠を取っていたようで眠たそうでした。どうも自分が出産の準備に立ち会うのが面倒で、なんとか朝の人にバトンタッチしたかったようです。でも、彼女の思いとは裏腹に、即出産してしまいました。出産したせいで、彼女の機嫌もますます悪くなりました。私だって好きで夜の1時52分に出産したわけではありません。たまたまそんな時間になってしまっただけなのに、母の選んだ個人病院ではなんだかとても自分が悪いことをしたかのような思いをしました。
わざわざ実家で里帰り出産を勧めた母はとっとと家に帰り寝てしまい、私には誰一人付き添いも無く、誰一人水の1杯も飲ませてくれることもありませんでした。完全看護とは名ばかりの病院に入ったお陰で私は出産当初からひどいマタニティーブルー。
多分、とうとう第2子を授からなかったのは、私がひどく出産嫌いになってしまったせいだと思います。人生の中でもとても嫌な思いをした日でした。
分娩室、それは個室のだれも知らない世界。妊婦にはどうすることもできない助産婦次第の部屋。これでは老人ホームで虐待が有っても死亡しない限りなかなか見つからないわけですよね。まるで、どこかの刑務所と同じです。