1973年5月、挫傷。 ぼくが柔道部に所属していたのは、この日記で何度も書いている。 1年の前半、それは真面目にクラブに通ったものだった。 5月、練習中に足の親指をねじってしまい、一時は人の肩につかまらなければ歩くことの出来ない状態になった。 それでもクラブには休まずに通い、練習に励んでいた。 人間一生懸命になれば痛みを忘れるものだということを、その時知った。 しかし、そのせいで完治するのに3ヶ月を要してしまった。
1973年9月、ドブさらい。 夏休みが終わり、運動会の準備に追われている頃だった。 ぼくのクラスは、1年の校舎につながる渡り廊下の掃除を任されていた。 その渡り廊下の横に小さな溝があった。 その溝の中程が出入口と重なっていたため、その部分だけ溝に落ち込まないように長さ2メートルほどの蓋がかぶせてあった。 その蓋が弊害を生んだ。 その蓋の中、つまりトンネル部分に何かが詰まってしまい、そこだけ水が流れなかった。 そのために溜まった水が腐り、あたりに悪臭を放っていた。 蓋は開かないし、その中に詰まっているものもなかなか取れないので、掃除当番もそこだけは掃除をしなかった。
ある日、そこの掃除当番がそのトンネルの周りに集まっていた。 ぼくが「どうしたんか?」と聞くと、当番は「水が流れんけ、ちょっと覗いてみたら、中にゴミが一杯詰まっとるんよ。少し取ってみたんやけど、その奥に何か硬いものが当たって、それ以上取れんっちゃ」と言った。 「ふーん」と、ぼくは素っ気ない返事をし、そこから立ち去ろうとした時だった。 誰かが「これを取り除くのは不可能やろ」と言った。 その『不可能』という言葉に、ぼくの血が騒いだ。 「ちょっと、見せて」とその中を覗いてみると、たくさんのゴミが詰まっていた。 「地道にこれを取ればいいやん」 「おれたちも何度か挑戦したけど、無理っちゃ」 「じゃあ、おれがやってみる」 と、ぼくは竹の棒を持ってきて、溝掃除を始めた。 なるほどけっこうたくさんのゴミが詰まっている。 パンの袋や、紙くずや、中には人形なんかも入っていた。 その日、けっこう取り除いたものの、まだ20センチ程度しか掘り進めなかった。 「明日する」 そう言って、ぼくはクラブに行った。
翌日、掃除の時間に、ぼくはまたドブさらいを始めた。 その日も紙くずや木ぎれの除去に終わった。 次の日から、休み時間まで利用してドブさらいをするようになった。 そして次の日、50センチほど掘り進んだ時、ようやくそのトンネルに詰まっているものの実体をつかんだ。 どこからともなく木の根が這ってきて、そのトンネルの中ではびこっていたのだ。 ぼくは唖然とした。 なるほどこれは不可能である。 木の根の除去は困難を極めた。 少しずつ、根っこの先は取れているのだが、実体はビクともしない。 引いてもだめだから、今度は逆から棒を突っ込んで、押し出す方法をとった。 しかし、動かない。 いよいよ作業に行き詰まってしまった。 そんな時、ぼくがそこの掃除をしていることを知ったクラブの先輩が、「お前、あんなところを掃除しよるんか。おれ、1年の時にあそこで小便したぞ」などと言ってきた。 作業は進まない、先輩の小便・・、いろんなことを考えていくうち、だんだんドブさらいに嫌気がさしてきた。
その日も、作業をしていたが、全然進展しない。 「もうやめよう」と思っていた時だった。 ふと周りを見ると、ギャラリーがいるのだ。 他のクラスの人間だった。 ぼくに「貫通しそう?」などと聞いてくる。 「いやあ、むずかしいねえ」 「ふーん、大変やねえ。でも頑張ってね」 その時、ぼくは『やめるわけいかんなあ』と思った。 トイレに行っても、知らない人から「あ、今日はドブ掃除せんと?」などと声をかけられる有様だ。 いつのまにかぼくは、ちょっとした『時の人』になっていたのだ。
さらに、やめられない理由が出来た。 以前書いた、『その後のぼくの人生を変える人』がぼくに注目し始めたのだ。 彼女はぼくに「何でこんなことしよると」とか、「しんた君、変わっとるね」などと声をかけてきた。 ぼくは内心嬉しかったが、「うるさい」などと言って、ブスッとした顔をしていた。 しかし、これはチャンスである。 もしここでやめたら、こんなにカッコ悪いことはない。
10日ほどして、ようやく光が見えてきた。 中を覗いてみると、1メールほど掘り進んでいるのがわかったのだ。 残り1メートルだ。 その時からぼくの気持ちは、『困難だ』から『何とかなる』に変わっていた。 そして2日後、何とかなった。 いつものように棒を突っ込むと、何か硬いものに触れた。 これは何だろうと、棒の先にその硬いものを引っかけて、思いっきり引っ張ってみた。 「ズズッ」という音がした。 1メートルほど長さの黒い固まりが出てきた。 トンネルの中を覗いた。 あちらが見える。 ついに貫通した。
教室に戻ると、みんなが「おめでとう」と言って祝福してくれた。 ぼくがドブさらいをやっていることを知らないと思っていた担任までが、「お、しんた、開通したか」と言っていた。 しかし、その後何が変わったわけではなかった。 ぼくはいつものように、教室で声を張り上げ歌を歌っているだけだった。
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