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2002年09月12日(木) 「戦争反対!」を叫ぶバカチンたち

今日もテレビでは、昨年の同時多発テロ関連の映像を流していた。
大統領の演説、ニューヨークの風景、テロ反対の集会、イスラム教信者への偏見に対する抗議、などなど。
原爆記念日や終戦記念日などと同じように、いつもながら戦争悪の立場に立ち、「こういう番組を放送する我々はいい人だ」ふうな番組構成になっている。

さて、その戦争だが、いくら「戦争反対!」などと声高々に叫んでも、「戦争反対!」を信念として守り通したとしても、戦争というものはなくなるものではない。
なぜなら、人間は神でなく動物であるからだ。

動物の本能には、縄張り意識というものがある。
犬が吼えるというのも、自分の縄張りが荒らされるのを阻止するための威嚇行為である。
これは人間が仕込んだのだろうか。
いや、これは犬の持っている本能である。
猫や猿も縄張りを守るために争う。
当然これも人間が教えたものではない。

人間もこれと同じである。
ただ他の動物と違うのは、人間の縄張りというのは複雑だということだ。
他の動物の縄張りというのは、自分が活動するための場所を意味する。
ところが人間の場合の縄張りは、土地ももちろんだが、主義・主張・思想・宗教という精神的なものまで含まれる。

「この席はぼくが先に来て取ってたんです!」
「誰にことわりを得てこんな所で商売やってるんだ!?」
「誰だ、うちの塀に小便引っ掛けるやつは!」
「お宅の柿の木がうちの庭にはみ出してるんですけど」
よく見かける光景だが、こういうのは場所の縄張りである。
当然どちらかが折れないと喧嘩になってしまう。
しかし、こういう場合どちらも折れないことが多い。
それが、人間の縄張りを守る本能だからだ。
「戦争反対!」派の人でも、こういう場合は折れないだろう。
考えてみると、この場合、暴力に発展することはないにしろ、争いにはなっている。
これは戦争じゃないか。

「そんな考え方はやめろ!」
「それって人権蹂躙じゃないか」
「おれの意見に従え」
「そういう考えの人は辞めてもらって結構です」
「君は平和を望まないのか!?」
「くだらん思想にかぶれやがって」
ぼくはこういうことをよく言われてきた人間だが、こう言われるのは精神的な縄張りの侵害である。
当然ここでもトラブルが起こる。
縄張りを守るという本能から発するのだ。
売り言葉に買い言葉、言い返した時にはすでに争いになっている。
「暴力反対。話し合いで決着をつけましょう」とよく言うが、「話し合い」も立派な武力闘争である。
トラブルが起きた時、すでに戦争になっているのだ。

国もいっしょである。
国というのは巨大な本能の集まりである。
日本に縄張りを侵されるという妄想を抱いたアメリカは、その巨大な本能に任せ、日本に戦争を仕掛けてきた。
そして、日本が縄張りを侵す存在にならないようにと、完膚なまでに叩きのめした。
逆に日本は、おのれの本能に逆らってまでアメリカの本能の攻撃に耐えたものの、結局おのれの本能に逆らえず「真珠湾」に踏み切った。
一見近代的で複雑そうに見える国際社会も、本能に置き換えると実に単純な世界である。
要は、さまざまな縄張りを各国が死守しようとしているだけのことだ。
武力こそ使わないが、常時戦争をやっているのだ。

山で仕事をする人は、熊からの攻撃を避けるために、自分の居場所の周りに小便をばら撒くという。
こうしておくと、熊は「ここは他人の領域だ」と思い、小便をばら撒いたところから内側には入ってこないという。
熊としては、小便を人間の作為と思っているわけではない。
自然な本能の掟だからそうするわけだ。
熊の被害にあうのは、人間が熊の縄張りを荒らすからである。
そういう本能の掟を破るからである。

軍備もそういう意味では本能といえるだろう。
国境とは小便のことである。
小便内に侵入してきたものに、武力を用いるのである。
これは熊の場合と同じことだ。
こういう場合に、「武力を用いずに、話し合いで」という人がいる。
話し合いで決着をつけるのが、平和的で立派な行為とでも思っているのだろう。
繰り返し言うが、話し合いも戦争である。
武力、破壊、殺傷だけを、戦争だと思わないでほしいものだ。
人間とは、縄張りを守る、そのためには他と争う、という本能を生まれながらに持っている動物である。
軍備反対と目くじらを立てて言う人がいるが、そういう人たちは人間の本能を忘れ去った異常な人たちと呼ばざるを得ないだろう。

いずれにせよ、人間とは毎日戦争をやっている動物なのである。
「戦争反対!」なら、もう死ぬしかないだろう。


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