行人徒然

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行間
2001年07月31日(火)

 最近楽しみがひとつ増えた。
 別館のNARUTOに張ってある「カカイルリング」と「カカイルノベルリンク」を一日2ヶ所ずつ回ること。
 でも、割とがっかりしちゃうことの方が多い。

 あたしの不幸のひとつは、

相方が自分好みの絵を上手く書くこと

 だと思っている。
 だから、あたしはよそのリンクへ遊びにいっても、イベント会場で本を手にとっても、理想とするものになかなか会えない。普段何気なく見ている相方が上手すぎるせいだな。贅沢な不幸だな、なんて思ってしまうわけだ。

 それからもうひとつの不幸は、

歳をとったということ。

 12の頃から話を書いていました。
 幼稚園生の頃から話を創作していて誰かに話していました。
 はじめてサークルを結成して10年近く経ちました。

 歳をとると、目が肥えてきます。悪い癖で批評家ぶってみたくなります。あの頃満足できた話は、今ではとても不満足で、どんどん高レベルな作品を求めていきます。
 自分の作品レベルを棚上げしてはっきり言うと、満足させてくれる小説ってほとんど無いんです。
 前も書いたけど、散文詩はよく見るんだけど。
 散文詩で感動したりすることって、ほとんど無いよね。




 上手い小説を書く人って言うのは、最初の数行で決まると思う。

 どんなに中身が面白くても、手にとって最初に読み出す数行が気持ちを惹きつけなければその本は絶対に読んでもらえないと思う。エッチシーンがあるなら、そこの部分だけは読んでもらえるかもしれないけど。
 出だしを書くのに苦労する。それは間違ってないと思う。
 初対面の人に『こんにちわ』って挨拶をするとき、ぶすっとした顔じゃ誰も挨拶をし返してくれないようにね。

 上手い小説って言うのは、それから、行間が喋っているんだよ。
 ページのまわりにある空間が、段落であけられた空白が、何も書いてない行間が、それぞれ意味合いを持って喋っている。
 無駄に開いている隙間じゃないんだ、それは。

 時間の流れも、
 気持ちの流れも、
 その表情さえ。

 上手い書き手さんって言うのは、表情も気持ちもほとんど書かないよ。行間が教えてくれるから。
 でも、その行間を浮き立たせてくれるのは、丁寧に書き込まれたその人の心。
 だから、たった一言の言葉で読んでいる人は泣いてしまったり、笑ってしまったりするんだ。



 漫画と小説なんだけど。

 漫画って言うのは『観客』の立場でその話を見ているんだとあたしは思っている。だからなかなか感情移入ができなくて、泣いたり笑ったりするのはその表情とか考え方に「釣られて」自分の感情が動いているような気がするのだ。
 でも、小説って言うのは自分が『演者』なんだよね。少なくてもあたしの場合はそう。
 文字はそのまま画像になってあたしの目の前に見える。字を追っているのではなくて、その上に浮かび上がってくる世界を見ている。
 登場人物の目と同じように見える世界。あたしは主役そのものになったり、その隣に立つ脇になったりしながら、たくさんの役を一度にこなしていく。そして、その人物そのものになってその感情を我が物として、共に泣き、笑う。

 でも、漫画だって小説だって、ヘタクソなものじゃ駄目なんだよ。テレビを見ているとき、画面がちらついてたら見にくいでしょ。
 何か演劇をやるとき、台本のページがあちこち破けていたら、どうやったって演技はできないでしょ。



 話を書くときにいつも思うんだけど。書かない時も思っているんだけど。

 マイナスの感情っていうのはとても強い。

 ギャグは上手い人で無いと書けないと言うのは、そういうことなんだよね。
 マイナスの感情というのは、人間誰もが恐れているものだから、ほんの少しの記述でも連鎖反応で誰もが強烈に自分の中で置き換えてしまう。
 死ぬとか、失うとか。

 プラスの感情って言うのは、誰もが望んでいる割に些細なものが日常に落っこちていたりするから、割合みんな不感症になっちゃう。
 好きですとか、嬉しいとか。

 幸せがあると後から来る不幸が怖いから、笑うことに対して人は防御する。
 不幸は心から悲しんで、二度と同じ思いをしないようにと増大化させて感受する。

 人ってそういうものじゃないのかな。

 わかんないけど。



 最近のあたしは、いろいろ考えてばかり。

考えることをやめてしまったら、
きっと錆びたロボットのようになってしまうだろうけど。



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