Simple Faith


2005年03月13日(日) アラスカとDr Veith

今月の6日からジョンはアラスカに行っています。元旦の日記に書いたDr Veith がアンカレッジで講演会を行っていて、以前から彼のミニストリーであるアメイジング・ディスカバリーのスタッフと連絡を取り合っていたジョンは、そこで初めて彼らと顔合わせをし、手伝いをすることになったのです。

毎日電話でいろいろなことを教えてくれます。どうやらDr. Veith や他の人たちとすっかり意気投合したようです。

Dr Veith はいろいろな苦難や迫害にあっている人です。彼のメッセージは決して耳障りのいいものではないので、嫌がる人はとても嫌がるみたいです。アンカレッジの教会でジョンが仲良くなった教会員の男性は、彼のメッセージにとても衝撃を受けて心を動かされ、ジョンに「このメッセージを聞いたら、み言葉に真に堅く立つクリスチャンになるか、世に行ってしまうかのどちらかだ。真ん中はありえない」と言っていました。黙示録でイエス様が「むしろ熱いか冷たいかのどちらかであってほしい」と言われていますが、そんな感じでしょうか。

Dr Veith は長い年月をかけていろいろな文献や資料を研究してこのメッセージをまとめています。耳を疑いたくなるような事実もすべて彼の言葉ではなく権威のある源からの引用です。

ここでその引用なしに具体的なことを説明してしまうと、まるで巷に出回る憶測の陰謀論みたいに聞こえかねないのでそれはしませんが、これだけは言っておきたいということがあります。それは、現代の世の中はまさに黙示録の後半の預言のとおりに動いているということです。それもものすごいスピードで。

預言にあるとおり、全世界が黙示録の「獣」を拝むために一致しようとしています。そして悪魔はそれを世界の政治、経済、スポーツや音楽などのエンターテイメント、そしていろいろな宗教などを用いて成し遂げようとしており、実際に世界はその方向に向かって動いています。私たちが知らないだけなのです。

クリスチャンが良かれと思って用いているいろいろな伝道方法も、元をたどれば、この動きを促進し、イエス様を引き下げて人間を引き上げるために巧妙に作り出された方法であることがこの研究から示されました。(具体的な説明をいつかHPに載せられるといいのですが…)

教会の人数を増やすために、神様を知らない人も楽しく過ごすことができるために(もちろんそれ自体は素敵なことですが、それを主な目的として)用いる方法が、実は聖書と神様を横において、人間中心の宗教にするために作られた方法であることが、さまざまな引用からはっきりとしました。

この伝道方法を教える、とても影響力のあるアメリカの牧師のひとりは、次のような言葉を繰り返しています。

「今までのキリスト教は『人中心』ではなく『神中心』であることに固執するという大きな間違いを犯してきた」
「イエスは自我の塊だった」
「人は決して望みのない罪びとではない。そう呼ぶことこそ最も大きな罪である」
「地獄とは自己に対するイメージがネガティブであることだ」
「私たちに必要なのは、すべての人間の、栄光への飢えを認めるという救いの神学である」
「自分が価値のない人間であるなどと言わせて悔い改めを説いてはならない。そんなことをすれば、みな教会を離れてしまう」
「聖書に書いてあるからといって、それを説教すべきではない」
「教会成長の鍵は、人々の必要を満たして、自己を肯定的に見ることができるようにすることだ。そうすれば教会は繁栄する」
…他にもこのような発言は数え切れません。ちなみに、彼はプロテスタントの牧師でありながら、黙示録の「獣」の傘下にある組織の最高位に属しています。

このような神学を教える人に訓練された牧師たちが、今各地でメガ・チャーチと呼ばれる巨大な教会を抱えているのです。そしてあらゆる場所のクリスチャンたちがそれを手本にしています。言うまでもなくSDAのクリスチャンもそれに含まれます。

もしも良かれと思って用いる方法が、実は悪魔と「獣」によって、神様を引き摺り下ろすために作り出された方法だったとしたら、それでも「教会が成長するから」「多くの人が教会に来るから」という理由で用い続けることができるでしょうか?

クリスチャン・ロック音楽に反対する私の友人が、ある人に「愛がない」と言われたと教えてくれました。でも、もしもこの音楽が同じ目的でキリスト教会で使われ始めたのであり、巧妙に悪魔的なメッセージを植え付けて神様から引き離すおそれのある音楽であるとしたら、それでも「青年が喜ぶ」「青年が教会に来る」という理由でそれを用いることが本当に「愛のある」ことと言えるのでしょうか?

「でも、それによって神様に導かれた人がいる」と反論する人がいるかもしれません。私の夫のジョンが神様の存在を認め、信じたのは、麻薬でハイになっていた時でした。では、そういう人がいるからといって、伝道のために麻薬を使ってもいいのでしょうか?もしもこのような音楽が本当に悪魔の策略のひとつだとしたら、麻薬の例と同じことが言えるのではないでしょうか?

神様は私たちの想像をはるかに超えたところで働かれます。だからといって、それが使うべきでない方法を使うための理由にはなりません。


私たちの属するマウント・プレザント教会は、1年前に比べて礼拝出席者が倍近くに成長しています。この教会は、ある教会員が「30年前からまったく成長していない。カトリックの町だし、そういうものなんだ」と繰り返していた教会です。

でも、それはあの手この手で人を集めたからではありません。牧師やバイブル・ワーカーや教会員たちが外に出て行って、忠実に地道に聖書のメッセージをのべ伝えたからです。求道者の人たちは、口を揃えて「初めて御言葉を本当に学ぶことができた」と言っています。多くは御言葉にしっかり根付いたクリスチャンに成長していっています。また、神様の福音をのべ伝えたいと思いながら自分の教会で行き詰っていたSDAの他の教会の人たちがここ数ヶ月で10人以上出席するようになり、その半数以上が転会の希望を出しています。

私たちは、ただただ神様のなさるわざに驚嘆し、圧倒されるばかりです。

この経験によって、この場所を離れ、他の場所で働くことになったとしても、そこでどんなに報われていないように感じても神様は地道な働きを祝福してくださると思い出すことができます。


あー、長々と書いてしまいました。いい加減にしなさいと言われそうです。いや、ここまでたどり着かないかもしれませんね。どうもすみません…

あさってジョンがアラスカから帰ってきます。楽しみなのでした。



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