1969年の浦和レッズ:三菱重工東南アジア遠征 - 2007年05月22日(火) さて、浦和レッズは明日ACL・グループリーグの大一番を 迎えるわけですが、そんな浦和も昔はアジアで頑張った時代も ありました。 てなわけで、サッカーマガジン1969年5月号 東南アジア遠征レポートをどうぞ。 ---- 日本のサッカー界では新興の部に入る三菱重工とヤンマー・ ディーゼルが六八年度の日本リーグ、天皇杯日本選手権の 好成績から、さらに一層の飛躍をはからって、シーズン・オフの 二月から三月にかけ東南アジアへ遠征した。 「前々から東南アジアの代理店の要望もあったし、リーグ二位、 天皇杯優勝という絶好の時期だったので実現することに した。私自身は市場開拓もしてきたい」 とヤンマーの山岡専務(遠征チーム団長)がいう通り、両者とも チームの強化と企業のイメージ・アップをねらっての一石二鳥の 遠征だった。 ヤンマーが4勝2敗、三菱が2勝2分け1敗の成績。日本リーグの 開幕を前に1ヶ月近く、チームがまとまって暮し、きびしい試合を することができたことは両チームにとって大変なプラスだったに 違いない。 そこで両チームの成績をふり返ってみよう。 ☆三菱重工 第1戦はシンガポール選抜(2月15日・シンガポール)旅の 疲れや、暑さなどからくる急激なコンディションの変化にも かかわらず、活発な試合を展開したが4−5で負ける。 終わる直前に杉山が相手バックにけられ、PKのチャンスを つかんだが、森がGKのモーションにひっかかって失敗。 引き分けを逃した。 第2戦はマレーシアのチャンピオン、セランゴールと。 (2月20日・クアラルンプール)「強かった」とは 清水主将の言葉だが、三菱は受身に立たされることが多い。 外電はGK横山の再三の攻守をほめたたえ、「彼がとると、 難しいボールまでがやさしくみえた」と伝えてきた。 日本の攻撃は六八年度最優秀選手に選ばれたCHチャンドラン にがっちりと押さえられ、結局0−0の引き分け。 この試合はラーマン首相も観戦した。 第3戦のタイ警察(2月23日・バンコク)で初勝利。前半に 13分杉山が左コーナーキックを右足でひっかけるようにけった。 ボールは手前のポストぎりぎりから回り込んでゴールイン。 これが決勝点で1−0のままタイムアップとなった。 次のタイ・ユース(2月27日・バンコク)は0−0の引き分け。 3月5日、香港で最終戦(以下、浦和レッズ史上最悪のアウェイ戦参照) …こんなアクシデントはあったが三菱にとっての収穫は、従来 弱点だった中盤の強化がある程度できたこと。 山田が下がり森・片山と4・3・3の真ん中の3を組むことに なりそうだが、山田がこの位置のプレーを覚えたし、FW、 FBも中盤の選手を使うコツを会得した。 もう1つは早大から入った新人細谷が、遠征に同行、早くも チームの空気になじんだこと。 またFWからFBへ転向した菊川が攻撃的バックとして 定着できたことも大きい。 遠征を通じて、日本リーグの布石が敷かれたわけで、その 成果が実際に国内のゲームにどのように現われるか楽しみだ。 ------ 実はヤンマーの遠征はインドネシアやカンボジアに行ってて 面白いのですが、それはまた別の機会で。 記事を補足すると、シンガポールはこのときまだサッカーはマレーシア FAの管理下だったハズです。 マレーシアのセランゴール(スランゴール)は名門チームですね。 マレーシアFAカップで、シンガポールとも死闘を演じたチームです。 タイ警察は昔は代表選手が所属してたので、当時は結構強かった と思います。 タイ・ユースは、同時期に遠征したヤンマーに1−2で負けてます。 ラーマン首相は、アジアサッカーの歴史に凄まじい功績を残した サカヲタです。あと、てんぷら大好き。 マレーシアにAFCがあるのは何ゆえ?と感じた人は、調べて みてください。トゥンク・アブドゥル・ラーマン、ムルデカ大会、 アジアユース、あたりを検索すれば出てきます。 まあ昔はサッカー選手はサラリーマンだったので、”市場開拓” とかいう単語は、今では欧州チームのアジアツアーになって しまうのですが、当時は親会社の海外支社への出張みたいなもん だったんでしょう。 打ち合わせついでにちょっと球蹴る?みたいな。 ま、明日のACLもこの記事みたいに、40年後経っても 色褪せないと思うので、観戦する人はその歴史の目撃者に なるのを意識しましょう! …で、是非とも準決勝で会いましょう、浦和レッズ! (決勝の相手は俺の中では西アジアのチームが理想) ...
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